日本オリーブオイルソムリエ協会主催の国際コンペで銀賞を獲りました!

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背景がわかる良質な商品をお届けします。

パレスチナ・オリーブでは、素材の質や効能はもちろん、
誰が、どんな状況で、どういう方法で作ったものなのかといった製造背景をクリアにしています。
だから安心。だから美味しい。だから、自信を持ってオススメできる商品ばかりです。

生産者パートナーと協力し、ともに生きる
誰もが大切にされる社会を作っていきます。

パレスチナ・オリーブは、パレスチナ北部のガリラヤ地方(1948年からイスラエル領)のオリーブオイルなどの食品、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)ナーブルスのオリーブ石けん、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)イドナ村の刺繍製品を扱っています。

実際に食べて使って納得したものを輸入し、現地を訪問・交流しながら活動しています。

イベント

第11号(2003年9月27日発行)
  1. ガリラヤ訪問

    〜コフル・カルア村の壁絵〜

    グリーンライン(ヨルダン川西岸地区とイスラエルを分ける停戦ライン)近くのイスラエル内にコフル・カルアというパレスチナの村があります。その村のサッカー場の壁に、アメリカ人のアーティスト、マイク・エールウィッツさんが壁絵を描きました。アラビア語とヘブライ語と英語でNO WALLS BETWEEN WORKERS(労働者の間に壁はない)という文字が書かれた、労働者の団結を示す、メッセージ性の強い壁画です。→壁画

    これは、「ガリラヤのシンディア」の連携団体であるWAC(ワーカーズ・アドバイス・センター、イスラエル内のパレスチナ人労働者の支援を行なっている)と地元労働者とマイクさんの共同作業で作られました。私には、正直、芸術的(?)には見えない壁画でしたが、村の若くてかっこいい村長さんは「こんな素敵な絵だと知っていたら、私の家の壁に書いてもらったのに」と冗談を言っていましたし、サッカー場の隣りに住んでいる家族は「とっても気に入ったわ」と言っていました。

    〜建設労働〜

    イスラエル内のパレスチナ人の大半が住む、ガリラヤ地方の村の男性に職業を尋ねると、ほぼ全員が建設業の仕事があったり、なかったりだと言います。大学を卒業しても就職口はありません。

    ガリラヤの建築労働者は、夜明けから夜まで働くため、家族から離れてテルアビブ周辺などに働きにきて、6人1部屋でユースホステルに宿泊しています(ガリラヤからテルアビブまで車で2〜3時間)。多くは子供のいる、中年の人です。

    一方で、外国人労働者の数が増えています。『ぜいとぅーん』10号でも書きましたが、1992年以降、イスラエル政府がガザ地区・ヨルダン川西岸地区からのパレスチナ人労働者を締め出し、建設業者に外国人労働者を雇う許可を出しました。外国人労働者(主にルーマニア、タイ、中国)は増え続け、イスラエル国籍のパレスチナ人も職を失いました。

    今回、エルサレムからガリラヤなど北部に向かうときに、何度かテルアビブ南部の中央バスステーションを使いました。テルアビブ北部がビジネス街、高級住宅地であるのに対し、テルアビブ南部は比較的貧しい地域です。周辺を少し歩くと、すれ違う半分くらいの人が中国人労働者ではないかと思います。軽食堂の看板やメニューも中国語、店頭のテレビでは、衛星放送なのかみんなで中国語ニュースを見ていました。ユダヤ人のための国家をうたうイスラエルのシオニズムの性格から、外国人労働者は出稼ぎ労働で、家族の呼び寄せは認められていません。劣悪な労働環境、住宅環境で3〜4年過ごし、お金を貯めて本国に帰ります。

    イスラエル内のパレスチナ労働者の賃金はユダヤ系イスラエル人に比べて圧倒的に低いのですが、外国人労働者の賃金はそれより低いのです。7月にWACと共同で集会を持ったホットライン(外国人労働者の労働問題を扱う)によれば、80%以上の外国人労働者が法律で定められた最低賃金を受け取っていないということです。また、人口約650万人イスラエルに約30万人の外国人労働者がいると言われていますが、この割合は世界でももっと高い国の一つになのだそうです。

    ただし、WACに登録してる労働者は、外国人労働者は自分たちの敵ではなく、同じく抑圧された者なのだとと言います。問題となっているのは、奴隷労働を推進している政府・建設業界・派遣会社なのです。

    〜阻害されるガリラヤの産業育成〜

    ガリラヤを訪問すると、年々、パレスチナ人の村の土地が接収され、ユダヤ系イスラエル人の町が拡大しているのがよく分かります。「ガリラヤのシンディアナ」の倉庫があるマジダ・ル=クルム村に近接した土地にも新しい工業地帯(バール・レヴ)が広がっていました。一方で、イタリアで勉強し、自分の農地に乳製品工場を作ろうとしたガリラヤのパレスチナ人は工場建設の許可をイスラエル政府から得ることができませんでした。そこは農地用の土地であり、工場を建てることはできない、というわけです。ところが、ユダヤ・セクターについては、パレスチナの農地を没収した後で、工業用に土地を変更するということが容易に行われているのです。

    水の配分の不公平さも変わっていません。そもそも使用できる水に制限があるほか、例えばマジダ・ル=クルム村の廃水は、近くのユダヤのキブツにの浄化施設で処理され、無料で畑に再利用されているそうです。マジダ・ル=クルム村には、設備を作るお金もないし、許可もありません。

    さらに、ガリラヤの村々の行政機関が財政破綻を抱えているという話を聞きました。実際に、ある村の役所の前では、公務員(役所で働く人と学校の先生)がストライキをしてピケが張られていました。10ヶ月間給料が払われていないそうです。これは、ここ数年ガリラヤの村に共通の問題だそうです。税金の徴収や政府からの助成金が不十分であること(配分の不公正)、村の行政機関の中での分配の問題など構造的な問題からきているそうです。

    〜ガリラヤのシンディアナ〜

    「ガリラヤのシンディアナ」のオリーブプロジェクトはこのような背景の中で、行われているのです。中心スタッフはいつも忙しく飛び回っていて、同行する私たちの方がばてそうでした。マジダ・ル=クルム村の倉庫での作業、ガリラヤのオリーブ農家の訪問、ナザレやヤーファの共同事務所での仕事、ヨーロッパやアメリカへのフェアトレード輸出先の開拓など。今回の訪問のときに変化していたことは、ちょっと倉庫が拡張されて、石けん保管専用の部屋ができていたこと、若い女性スタッフやメンバーが増えたことです。外からは廃屋にしか見えない建物の中を自分たちで改装して、ヤーファの事務所も少し広いところに移転しました。少しずつ充実している反面、イスラエル経済が悪化し国内市場が冷え込んで販売量が落ち込んでいること、村の中で女性が自ら活動していく上での難しさなど、問題もいくつかあるようです。

    皆さんがオリーブオイルやオリーブ石けんを気に入ってくれていること、活動を応援してくれている気持ちなどを伝えると、「シンディアナ」設立当初からの支援・交流に感謝している、よりいっそうの販売を期待している、と話していました。

  2. 石けん工場&西岸地区

    今回の訪問では、ちょうど地元出荷用のオリーブ石けんを作る過程の一部(床に石けんを敷き詰める、切り分ける、乾かす)を見ることができました。(1回で1万個ほどの石けんを作ることができます)

    『ぜいとぅーん』8号にも書きましたが、石けんを切り分けたり、乾かすために積み上げる作業は、石けん職人の中でもスペシャリストの仕事です。彼の仕事を覚えようと他の人たちは補助しながらじっと見ています。私たちも、美しい職人技に大興奮、目が離せませんでした。

    パレスチナ・オリーブの販売しているオリーブ石けんは地元の品質の良い一番絞りのヴァージン・オリーブオイルから作られていますが、その石けんは、いま経済状況の悪い地元パレスチナ市場では、価格が高くて売れません。地元向けにはヨーロッパから輸入した品質の低いオリーブオイル(二番絞りのオイルや薬品で抽出したオイル。そもそも樹の種類が違うとも言っていました)から石けんを作っています。その品質の石けんの地元市場価格は1個60円ほどです。ナーブルスの他の石けん工場のオリーブ石けんも同じような品質で同じ価格です。(使い心地はやはり劣ります) 一方で、良い材料から良い品質の製品を作ることを彼らは誇りに思っています。

    〜石けんの出荷〜

    一年前にナーブルスの工場を訪問したときには、24時間の外出禁止令が毎日続いており、「閉塞感」を強く感じました。

    この夏、8月の半ばにナーブルスを訪問したときには、数ヶ月間、ずっと外出禁止令も出ておらず、石けん工場の人も、ここ三ヶ月連続で「西岸地域内限定」で移動許可証を更新できていました。つまり西岸内部であれば、一定の移動が認められている。けれども、イスラエル国内やガザ地区に行くことは禁じられています。また、いま夏休みだということもあって、親戚訪問が盛んで、みんなラマッラーに行ったり、ジェニーンに行ったり、近郊の村に行ったり、その程度のことはできるようにはなっていました。ナーブルスの町もにぎやかでした。石けん工場の人は、「イスラエル軍はいまや、外出禁止令を出さなくても、いつでもやってきて、いつでも逮捕や暗殺ができるから、外出禁止令の必要がないんだよ」と笑って言っていました。(パレスチナ人は、私たちがとても笑えないブラック・ジョークをよく言っています)

    ところが、仕事をしている人からすれば、例えばイスラエル側から原材料は入ってこない、製品もイスラエル・ガザに出荷できないで、相変わらず苦しい。本来は、いかに良いものを作るか、どれだけたくさん売るかに専念すればよくて、どのルートだったら原材料を確保できるか、とか、どうすれば出荷したものが届くのかなんていうことは、あまり考えなくともいいことのはずです。が、いまではそれが経営者らの最大の仕事になってしまっている。そこにものすごい労力が使われています。

    ちなみに、前回のオリーブ石けんの出荷は、イスラエル内のパレスチナ人の友人に助けられてガリラヤまで出せたのだそうです。その他、西岸の中でも、移動許可を得た別の業者と協力をして、許可を得ていない業者も出荷をするとか。ともかく、常にチャンネルをオープンにして、いま誰のどこのルートを使ってモノを取り寄せたり出したりすることができるかを、考えるだけでなく、しょっちゅう電話連絡をしあって、探っているような感じです。

    ナブルス近郊にサーリムという村があって、石けん工場で働く人の一人がそこから来ています。朝は4時半に歩いて出発しないと7時からの操業に間に合わず、また帰りも3時を過ぎると早めに工場をあとにします。そうしないと、検問所を越えて自宅に帰れないからです。

    しかし、私たちが訪問してから一週間たつと事態は急変し、イスラエル軍によるパレスチナ人暗殺、爆撃、パレスチナ人による自爆攻撃が続きました。連絡をとってみると、ナーブルスも毎日「外出禁止令」が出されて、石けん工場の人たちも出勤できないとのこと。ナーブルス市内にも戦車が再び繰り出していました。工場の様子だけでも見に行こうとこっそり車で出かけたら「もう少しで戦車と交通事故に遭いそうになったよ、、、 慌てて逃げた」そうです。

    〜通れなかった検問所〜

    数ヶ月前から、外国人がイスラエルに入国することや自治区(占領地)へ入ることが難しくなっています。

    ナーブルスの入り口にフワーラ検問所があります。ここで「特別な許可や特別のビザを持っている外国人(つまり、国連関係者やNGOスタッフの一部)しか通れない」と言われました。これまで何度も問題なく出入りをしている検問所なので、問題ないはずだと主張しましたが、こういうルールになったんだと言われるだけ。ちなみにこの日は、パレスチナ人については老若男女を問わず、この検問所を通過できていました。

    結局、仕方がないので検問所を通らなくてすむ道を行きましたが、炎天下、1時間ほど歩いて山越えするのはなかなか大変でした。

    その決断をするまで2時間くらい検問所で悩んでいたのですが、その間に、検問所にたむろしていた10代のパレスチナ人の若者たちと少し話をしました。近くの村やナーブルスの難民キャンプに住む子どもたちですが、彼らは検問所で荷物運びの仕事をしていたのです。そのときは学校は夏休みでしたが、普段は学校へ通っている、「働かなくてすむなら働かないけど、家計のためだよ、ほかに方法ないし」と言っていました。最初は、たんに暇つぶしにたむろして、外国人にちょっかい出す悪ガキ、、、と見えたのですが、なかなか殊勝なのでした。

    検問所は車のまま通過することはできません。通常の移動手段である乗り合いタクシーを降りて、歩いて500mほど歩きます。そして、検問所の反対側に別の乗り合いタクシーが待っています。その間で荷物を手押し車に乗せて運んでお金をもらうのです。乗客の荷物を運ぶこともあれば、町への食料品など業務用の荷物を運んでいることもあります。

    また、フワーラに限らないのですが、検問所にはよく出店が並んでいます。アイスクリームやジュース、アラブ風のサンドイッチなどその場で食べるものから、ブドウ、イチジク、サボテンの実など季節の果物や日用品、じゅうたんまで売っていました。つまり、多くの人が長時間並んで検問所を通過するために、商売になるわけです。たくましい商売根性だと感心する反面、検問所の恒常化の現れを感じました。

    これらの検問所は通過できる日もできない日もあります。イスラエル次第です。また、道路を封鎖してイスラエル軍が常駐しているだけのところから、しっかり通路ができ屋根もあるところまで様々です。

    本当にいやらしいのは、検問所の向こう側で別のタクシーが待っていることや、追い返されてもどうせ山越えで移動しているということを、イスラエル軍は知っているにもかかわらず、「ダメだ、ここはパレスチナの車は通れない」と車の通過を拒否していることです。日常的に「支配」を見せつけ、感じさせています。

    〜復活した検問所〜

    アメリカ主導の和平プロセス、いわゆる「ロードマップ」に伴い、7月末にヨルダン川西岸地区の2ヶ所の検問所が撤去され、大きなニュースになりました。その一つだったラマッラーからビールゼイトに至る途中にあるソルダ検問所が復活しました。実質二週間だけの「通行の自由」でした。

    私たちの友人がその近くに住んでいるのですが、彼がラーマッラーの職場へ行くには毎日検問所を通らなければなりません。検問所が封鎖されている日は会社へ行けませんし、検問所が開いていても、並んで通るために会社に遅刻することがあるそうです。また、検問所ではイスラエル軍による数々の嫌がらせが行われています。彼は「検問所がなくなったときは本当に嬉しかったし、復活したときは、がっかりした」と言っていました。私たちは、検問所が復活して3,4日後にそこを通ったのですが、もうすっかり出店が出ていましたし、何十台もの乗り合いタクシーがたまって混雑していました。

    この撤去自体、イスラエルのスタンド・プレーにすぎなかったわけで、西岸中で約170ヶ所あるとされる検問所と数万ヶ所にも及ぶだろうロードブロック(巨大なコンクリートの塊)や土石バリケード、道路破壊は、そのままです。しかも、「撤去」したチェックポイントはすぐさま復活できるのです。

    また、ラーマッラー・ビルゼイト間で食料・日用雑貨の小さなお店を開いている知人は「検問所が開いているときは、交通量が多いのでお店に客も増える。でも、検問所が封鎖の時は、ぱったり車が途絶えるので、お店の売上げもまったくなくなってしまう」と話していました。日常生活が検問所にコントロールされてしまっていることがここでもわかります。

    先日、エルサレム・タイムス(パレスチナの週刊英字新聞)に「検問所で本を読もう」というコラムが載っていました。筆者は、昨年早尾の取ったアラビア語コースの先生であり、普段はエルサレムに住み、ベツレヘム大学で教えています。「検問所で毎日1時間近く待たされている間、検問所でストレスと退屈を避けるベストな方法は読書だ」と彼は書いていました。またそれは、イスラエル軍に対して、「あなたが好もうが好むまいと私は気にしないし、私はここに存在しているのだ、ということを示すことで一つの抵抗となる」と。長い占領の中で、屈することなく、自棄的になることもなく、継続的な抵抗を示しつつ自らを保つ精神のあり様を見たように思います。(皆川・早尾)

  3. お料理コーナー
  4. おすすめの新刊

    ミシェル・ワルシャウスキー著『イスラエル=パレスチナ 民族共存国家への挑戦』
    (加藤洋介訳、岡田剛士解説、つげ書房新社、2003年)

    著者はイスラエルに住むユダヤ人ですが、「イスラエルはユダヤ人のための国家だ」というシオニズムには反対の立場をとっています。この本は、パレスチナ人とユダヤ人が一つの土地、一つの国家のなかで、差別されることなく対等に生活していけることを理想として、その可能性を歴史の中や将来の中に見いだそうとする試みです。「多民族共生」という理念を10世紀イスラーム治下イベリア半島「アンダルシア」から語りおこし、「イスラエル建国(1948年)」以前のリベラル左派ユダヤ人による二民族一国家案、そしてパレスチナ側からの「民主的・非宗教的国家」宣言(1967年ファタハ綱領)をつなげます。

    今、この民族共生の理念は、イスラエル国内に住むパレスチナ人(「イスラエル・アラブ」と呼ばれる)の側から積極的に語られています。著者は、イスラエル・アラブの国会議員らの見解に同意する形で、この理念が現実味を持ってきていると主張しますし、映画『D.I.』の監督エリア・スレイマン氏もまた、イスラエル領生まれのパレスチナ人として、二民族国家という考えへの共感を述べています。実際にイスラエル社会を見ると、人口の約20%がパレスチナ人であり、また外国人定住労働者もかなり増えており、「ユダヤ人国家」の内実はあちこちでほころんできていることも事実です。

    しかし、「事実上『隣人』とならざるをえない」ということと、本当に他者を尊重し「共生する」という理念とはまったく別物です。著者が例に挙げるハイファやエルサレムを歩いてみても、むしろ「不信感を抱いたままただ隣り合っている」、あるいは「目の前にいるけれど見ないふりをしている」と言ったほうがよさそうな感じです。また、西岸・ガザのパレスチナ人からすれば、入植地の撤去こそが重要課題であるのに、武装した集団入植者を前に「共存」などという掛け声は空疎に響くでしょう。そういう意味では、一国家二民族というところに希望を見いだそうとする意図は分からなくはないものの、ワルシャウスキー氏の見方はあまりに楽観的であるように思います。

    その点で、「ガリラヤのシンディアナ」の連携団体である『チャレンジ』紙の編集長ロニさんは、やや異なる見解を持っています。彼女は、あるイギリス誌から受けた最近のインタビューでこう言っていました。「中身のないオスロ合意の二国家解決案が破綻するのは当然としても、一国家案というのは現段階では知識人のゲームの域を出ていない。一国家か二国家かが問題なのではなく、ユダヤ人中心主義のシオニズムを解体すること、アメリカ中心のグローバリズムに立ち向かうことが何よりも大事なのです。」と。(早尾貴紀)

    *こんな本もあります*

    今拓海『地図にない国からのシュート-サッカー・パレスチナ代表の闘い-』 岩波書店、2003年

    *『ぜいとぅーん』10号で7月出版予定と書いた、徐京植『秤にかけてはならない』(影書房)は10月はじめに書店に並ぶこととなりました。

    映画

    エリア・スレイマン監督『D.I.』 〜感想編〜

    この映画を案内したところ、皆さんから感想を送っていただいたので、紹介させて頂きます。ありがとうございました。


    『ぜいとぅーん』10号に、パレスチナ人による『D.I.』の感想がありましたが、生活し、そこで友人を得ないとそういった感想を聞く機会もないので、そういったものを紹介して頂けて嬉しく思いました。個人的にはD.I.は良すぎた前評判のせいか、単に私の好みでなかったためなのか、期待外れではありましたが、彼の文章を読んで、確かに支援者である私は『ジェニン・ジェニン』のようなものを「期待」している側面があることを否めないな、と思いました。これはパレスチナ人以外だけでなく、パレスチナ人にとっても同じでしょうが。

    〜東京の長野さんより〜


    『D.I.』を7月に観ましたが、まだ興奮がさめません。パレスチナのことを人に話すとき、必ずといっていいほど反論に遭います。しかし、『D.I.』が頭に浮かび励ましてくれるのです。サントラは毎日聴いています。いいサントラです。パレスチナでは、観客は非常にわいたそうですね。パレスチナの人々のタフさを観た思いです。(あくまで映画ですが…。)

    〜奈良県の藤井さんより〜


    ほんとうに凄い映画だと思います。とくに、スモモの種を窓から放り投げた瞬間、巨大なメルカバ戦車が爆発するシーンには度肝を抜かれました。そんなひとつひとつのカットに込められたメタファを読み解いていくには、少なくともあと2、3回は観なければならないと思いました。

    あとこの映画のパンフ、『映画「D.I」でわかるおかしなパレスチナ事情』に収録されているインタビュー(54頁)で、スレイマン監督が「なぜ二つの国家なのか、なぜ国境が増えつづけるのか、何をするためなのか、なぜ2民族1国家ではいけないのか、なにゆえのナショナリズムなのか。平和の展望においての国家の概念が、問われ、定義され、再定義されるべきだろう」と答えていることに深く共感しました。パレスチナに住む人々の間で、このような考えはどの程度の広がりをもっているのでしょうか? とても気になるところです。

    〜奈良県の京谷さんより〜


    映画「D.I」、私も観ました。なんでもこの映画をラマラなどで公開したら場内爆笑の渦だったそうですね。わたしもところどころ笑ってしまいましたが、全体的にはとても笑い飛ばせないものがありました。しかし現地のパレスチナ人は大笑いなのです。会場で売っていた本にも書いてありましたが、ゴダールがパレスチナ革命を象徴するものは「笑い」だといったそうです。第三者である我々がひきつった笑いをしている横で、当の本人たちは大笑い・・・。そこに不屈の精神をもったパレスチナ人の姿があるように思います。

    〜埼玉県の秋本さんより〜

  5. 編集後記

    ラーマッラーの町中心部にあり、ぼこぼこに砲撃にあって象徴的にニュースになっていた商業ビルがきれいに修復されていました。よく見ると弾痕がわかるものの、テナントも戻っていました。爆撃されたラーマッラー警察本部の跡地は平にならされて、民間(だと思う)の有料駐車場になっていました。

    また、今年2月末にペシャンコに爆破された、ナーブルスの難民キャンプの知人の家も、家族自ら建て直しの最中でした。ただ、いまは他の家に仮住まいをしているのですが、大学生のお姉さんが「早く戻りたい」というのに対して、高校生の妹が「新しい家は見に行っていない」と言っていました。理由を尋ねると「遠いから」などとあいまいに答えましたが、実際には歩いて10分程度の距離。もしかしたら、夜中の突然の破壊の恐ろしい記憶が彼女のトラウマになっているのかもしれないと感じました。さらに、その家族と親しい知人は、「家は破壊されても建て直せる。でも殺された人、自爆した人は戻ってこない」と寂しそうに話していました。

    破壊された後、接収されてしまった土地の回復もまた困難です。壁建設のために、入植地拡大のために、工業地域拡大のために接収された、西岸・ガザ、ガリラヤなどの土地が戻ってくる見通しは現在のところありません。

    話変わって。ラーマッラー近くに住む友人が出産を控えていたのですが、予定日を数日過ぎていました。彼女は、「お腹の子は、外出禁止や検問所なんてある世界はいや、って思って出てこないのかもねえ」とケラケラと笑っていました。

    彼女から、国際起業家連盟による起業研修コースを取った話を聞きました。朝9時から夕方6時までびっしり3週間、英語で研修があったそうです。パレスチナでは初めて、ジェリコとラーマッラーで開かれ、西岸の各地から研修を受けに来た人がいたそうです。封鎖で帰れない日は、宿泊も世話してくれたそうです。

    彼女と話していると、どんな状況にいようと前向きでいることはできるのだ、と思わされます。「イスラエルの圧倒的な力の前に、私たちに何ができるっていうの??」と口では言うのですが、、、

    私たちはつい、目の前の破壊のすさまじさだけに目を奪われてしまいがちですが、パレスチナが今後、自立、独立を見据えていくには、パレスチナの産業や社会ををしっかり作っていくことが大切なのだろうと感じました。私たちの活動がその一助になればと思っています。

     

    パレスチナ・オリーブに、皆川に加えて、新しくフルタイムのスタッフが入りました。このほか、週一回手伝いに来て『ぜいとぅーん』にイラストを担当しているあだちさん、イベントや翻訳を手伝ってくれている数人の仲間たちでパレスチナ・オリーブは運営されています。(皆川万葉)

投稿日:2003年09月27日(土)
この記事のURL:http://paleoli.org/?eid=205