日本オリーブオイルソムリエ協会主催の国際コンペで銀賞を獲りました!

オリーブオイル 石けん サラダ オリーブオイル工場 オリーブの林

背景がわかる良質な商品をお届けします。

パレスチナ・オリーブでは、素材の質や効能はもちろん、
誰が、どんな状況で、どういう方法で作ったものなのかといった製造背景をクリアにしています。
だから安心。だから美味しい。だから、自信を持ってオススメできる商品ばかりです。

生産者パートナーと協力し、ともに生きる
誰もが大切にされる社会を作っていきます。

パレスチナ・オリーブは、パレスチナ北部のガリラヤ地方(1948年からイスラエル領)のオリーブオイルなどの食品、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)ナーブルスのオリーブ石けん、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)イドナ村の刺繍製品を扱っています。

実際に食べて使って納得したものを輸入し、現地を訪問・交流しながら活動しています。

イベント

14号(2004年4月12日発行)
  1. シンディアナ・ニュース

    前号の『ぜいとぅーん』にも簡単に報告しましたが、今回入荷したオリーブオイルは、2002年12月収穫、カッフィーン村の契約農家からのエクストラ・ヴァージン・オリーブオイルです。

    1.オリーブオイルの品質について

    今までパレスチナ・オリーブでは、の中で、デイル・ハンナ村のアベッドさん一家のオリーブ畑から採れたオリーブオイルを扱っていました。ところが、今シーズンは、エクストラ・ヴァージンのよいオイルを得ることができませんでした。(2003年12月)

    理由の一つは、オリーブバエ発生による被害です。ハエを防ぐためには蝿取りカゴを吊り下げますが、完全に防ぐことは難しい、そして、2002年のように収穫が少ない年には、少ない実にハエが集中するために、被害が出やすいのです。(オリーブは2年周期で量的に豊作と不作を繰り返します)

    もう一つの理由は、収穫、オイル圧搾のタイミングを誤ってしまったことです。アベッドさん一家のオリーブ林といっても、この樹はおじいさんが所有、この樹はおじさんが所有などと分かれています。いいオイルを採るには、きちんと相談をして一斉に収穫、すぐにオリーブオイル工場に持っていく必要があります。しかし、昨年は、ラマダーン(断食月)とオリーブの収穫期が重なってしまったこともあり、それぞれが収穫をするのに任せてしまったそうです。このことについてアベッドさんは反省し、「今年は気をつけます」と言っています。

    アベッドさんは丁寧にオリーブを栽培・収穫していますが、伝統的、歴史的にずっと栽培されてきているためか、一般のパレスチナ人たちは、酸化濃度などオリーブオイルの品質にそれほどこだわっていない面があります。誰もが「俺のオリーブオイルが一番だ」と言うのですが。いままで、高品質なオリーブオイルを作ってもそれを評価し、買ってくれるところがなかったということも影響しているでしょう。このため、シンディアナが高品質なオイルの技術指導をし、買い入れのパートナーになっていることは重要です。

    シンディアナスタッフも、高品質のオイルをつくっていくためにさらに勉強を続けています。3月には、イタリアのオリーブオイル会社の専門家が、ガリラヤの生産者向けに開いたオリーブオイルの質に関するセミナーに、シンディアナのハダスさんが参加しました。すでに知っていることも多かったが、初めて知ったこともあり得るところがあったとのこと。単に酸化濃度などの数値の問題だけでなく、味や風味のコントロールについても具体的なアドバイスがあったそうです。

    また、4月の初めには、ガリラヤのオリーブオイル協会が開く、4日間のオリーブオイル・テイスティングの講習会がありました。ハダスさんは、そのセミナーがとてもおもしろかっただけでなく、セミナーの参加者(生産者)とよい出会いがあった、と言っていました。ヨルダン川西岸地区から、農業団体や自治政府の農業省を通じて来た生産者もいたそうです。

    2.今回入荷のオリーブオイルについて

    今回は、契約農家のうちヨルダン川西岸地区カッフィーン村から2002年収穫分のオリーブオイルを輸入しました。地元のオリーブの樹、スーリ種のおいしいオリーブオイルです。

    しかし、『ぜいとぅーん』9号でお知らせした通り、カッフィーン村のすぐ西側に分離壁が建設されました。2002 年の収穫期には壁が建設途中で、検問やバリケードを避け山道を抜けてオリーブを工場に運ぶことができました。(素早くオリーブを運ぶために、「シンディアナ」は抜け道から運び込む人を余分に雇いました) そしてオリーブオイルをガリラヤに運ぶことができました。ところが、2003年には壁が完成してしまったため、シンディアナはカッフィーン村のオリーブオイルを買えませんでした。今後どういう方法があるのか、難しい問題です。

    ところで、前号にも書きました通り、オリーブオイルの賞味期限は通常、オリーブを収穫しオイルにしてから約2年間で、2002年収穫分のオイルは2005年1月までとなりますが、今回のオイルは改めて保存状態を検査機関で調べてもらいました。保存状態が良いため賞味期限は2005年10月31日です。

    3.有機認定について

    これまで、シンディアナの契約農家の一部は、EUの有機認定に準じるイスラエル有機農業協会の有機認定を取っていました。ところが、認定にともなう手数料が急に値上がりし、「シンディアナ」は認定マークのために高額の費用を払うのは無理だ、という結論に達しました。(これまで認定費用は「シンディアナ」が負担していました) そもそもパレスチナ人農家が認定を取るのは困難です。

    今まで通り、すべてのシンディアナの契約農家は、有機肥料を使い、オイルの圧搾後も一切の混ぜ物をしていません。オリーブオイルは、化学的な薬品等が使われていないかを第三者機関に検査に出しています。なお、認定マーク付きのラベルの在庫が大量にあるため、マークの上に緑のシールを貼っています。

    4.ガリラヤのシンディアナの活動状況

    「ガリラヤのシンディアナ」は1996年に発足、農家がオリーブ栽培を発展させること、生産意欲と収入を高めることを支援しています。また、ガリラヤの村の女性たちが運営し、ボトル詰めを行なうだけでなく、ミーティングを持ってオイルや仕事の質、シンディアナの計画、問題点、達成点などを話し合い、生産プロセスにかかわっていることは、女性に安定的な職を作りだすだけでなく、結婚後もアラブ・パレスチナ女性が働く事ができるんだ、ということを示す点でも意味があります。

    一方で、市場の開拓も重要です。設立時には、イスラエル企業に独占されている市場に、パレスチナ農民のオリーブオイルを販売する道を開きました。「ガリラヤのシンディアナ」は20トン弱のオリーブオイルを供給・販売してきましたが、その半分以上を国内市場で販売し、海外にはドイツと日本(パレスチナ・オリーブ)にのみ継続的に販売していました。

    ところが、イスラエル市場では、もっと安い輸入物がヨーロッパなどから入ってきたこと、パレスチナとの「和平」も崩壊し、経済も破綻してきている(株価の下落、GNPのマイナス成長)ことからイスラエル市場で販売していくことは難しくなってきました。2001年には、ヤーファ(イスラエル内のパレスチナ人の町)のレストランが「シンディアナ」に負債を抱えたまま倒産というできごともありました。

    このような事情の中で「シンディアナ」は昨年、IFAT(国際オルタナティブ・トレード組織連盟)へ加盟しました。IFATは、途上国における社会・経済的弱者の労働環境と暮らしの改善と、現在の不公正な貿易の構造を変え、公正な交易を実践することを目指す組織の国際的な連合体です。そして、各国のフェアトレード団体に積極的に売り込み、カナダ、オランダ、イタリアの団体や教会に販売することになりました。

    困難な状況が続く中で、シンディアナの役割はますます重要になってきています。私たちも、今まで以上に積極的に取り組んでいきたいと思います。

  2. 日本の皆さまへ
  3. お料理コーナー
  4. 滞在記

    アラビア語とヘブライ語

    「シンディアナ」のハダス(ユダヤ人)の家に泊まったときのこと。ハダスの娘で中学生のケセムが、アラビア語で話しかけてきました。ハダスが以前アラビア語を教えようとしたときにはあまり積極的には覚えなかったと聞いていたのでちょっとびっくり。そして、公立のユダヤ系の中学校でもアラビア語が義務化されていると聞いてさらに驚きました。5、6年前から中学校でのみ週5時間のアラビア語が義務付けられたのだそうです。

    もちろん、ユダヤ人がアラビア語を勉強することだけを見れば、悪いことではないはずです。占領下のパレスチナ人に接する機会のない一般のユダヤ人は、イスラエル国内のアラブ系市民として存在しているパレスチナ人にすら向き合おうとはしていません。マイノリティの言葉を学ぶことは、その存在を認めて、平等な社会を目指す第一歩だと言えます。「シンディアナ」のユダヤ人が全員アラビア語を話すのもそのためです。

    しかし、いまのイスラエル社会を見たときに、学校でのアラビア語教育導入を手放しで喜ぶことができません。それは、より効率的な「支配の手段」に思われるからです。ユダヤ人がアラビア語を実際に使っているのを多く目にするのは、パレスチナ自治区の中でイスラエル占領軍がパレスチナ人に対して取り調べをするときです。検問所では、徴兵されたユダヤ人の若者(しかも中東出身ではなくヨーロッパ系)がアラビア語でパレスチナ人に質問をしたり怒鳴ったりしています。「そこで止まれ」「一人ずつ来い」「身分証を出せ」「どこに住んでいる?」「どこに行く?」等々。また、イスラエル国内のアラブ人も皮肉を込めてこう言うことがしばしばです。「アラビア語も公用語と言うが、イスラエル国家がアラビア語を必要とするのは税金を徴収するときだけだ」と。

    植民地支配において、つねに言語が支配の道具になります。支配側が地元の言語を学び利用し、そして逆に地元の人びとに支配者の言語を強制する。それはパレスチナ/イスラエルにおいても変わりありません。

    イスラエル国内のパレスチナ人にはヘブライ語が完全に義務化されており、いまヘブライ語なしに彼らの生活は成り立ちません。特に若い世代では、アラビア語での会話の中にも不意にヘブライ語の単語やフレーズが混じるのもよく聞かれます。しかし、3月20日にイスラエル内のパレスチナ人の町ヤーファで開かれたイラク開戦1年の反戦集会で印象的なことがありました。イスラエル内のパレスチナ人の村ウンム・ル・ファヘムから参加した20代の若者らが、集会の中でヘブライ語の風刺コントや詩の朗読を、スタッフからアラビア語に通訳をしてもらっていたのです。若い世代ではほぼ完全にヘブライ語を解するものだと思っていたのですが、村の中だけで暮らす限りはほとんどヘブライ語を用いる機会はなく、学校で習った程度では忘れてしまうというのです。

    「土地の日」デモとマスコミ

    3月30日は「土地の日」でした。1976年に起きたガリラヤ地方の村の土地接収に抗議をしたデモと、イスラエルによる弾圧に端を発するこの日には、毎年各地でデモが行なわれます。今年僕は、友人がエルサレムでの呼びかけ人になった西岸のベイト・ドゥッコ村でのデモに参加しました。ラマッラー近郊の山中の美しい小さな村に人びとが集まったのは、今まさにそこにイスラエルによって「分離壁」が建設されようとしているからです。地元の人を中心にしたデモに、僕らはエルサレムから乗り合いタクシー二台で駆けつけ合流しました。

    パレスチナの春は、丘に野生のアネモネやポピーがたくさん咲き、とても美しい季節です。しかし、遠巻きにイスラエル兵が監視をするその建設予定地は、もしかすると来年は近づくことすらできないかもしれないのです。朝から、子どもから老人までが総出で集まりました。でも、どうすれば壁建設を止めることができるのでしょう、、、

    ところで、そのデモを取材していたマスコミの動きがやや奇妙に映りました。3月21日のイスラエル軍によるハマースの指導者ヤーシーンの暗殺を受けて、パレスチナで「何か」が起こることを「期待」して、ジャーナリストの数が急増しました。「何か」とはつまり、抗議デモや自爆攻撃などの「絵になる」出来事のことでしょう。デモについてきた多くのジャーナリストは、タイヤを燃やす場面や、デモのリーダーがマイクを通して熱く叫ぶ場面、そして男性らが並んでお祈りをする場面などに、一斉にカメラを向けました。しかも、お互いにファインダーに入らないように、一つの角度から並んで。まるで記念撮影会のようでした。こうしてステレオタイプが作られていくのかなぁと思いながら、奇妙な感覚で僕はそれを眺めていました。

    こうしたマスコミらは、ヤーシーン殺害の抗議デモなどでも、黒ずくめや迷彩服で機関銃を肩に担ぎ「復讐」を誓う男たちばかりを強調します。彼らは確かに「絵になる」し、「報復合戦」という構図や「武装組織ハマース」というイメージにも合致しているでしょう。しかし、ハマースを支持している人びとが、武装闘争や自爆を支持しているわけではありません。一番大きな要因は自治政府の独裁と腐敗に対する批判です。「和平の恩恵」は自治政府関係者のみに独占され、批判者は弾圧をされる。それに対して、貧困層のために病院や幼稚園・学校を経営するハマースに民衆の支持が集まるのは、当然のことです。それをあたかも武装闘争を人びとが支持しているかのように報じるのは、非常に偏っているし、特にオスロ合意以降の問題を隠蔽することになると思います。

    イラクが比較的「平穏」に見えた3月半ばまでイラクにいたジャーナリストらが、大挙してパレスチナに来ています。イラクは静かで「つまらない」から、と。皮肉なことに、3月の末からイラクの状況はいっそう深刻さを増しています。ハマースの猛反撃がなく、いまのところ「平穏」に見えるパレスチナに背を向けて、多くのジャーナリストらは、いまごろ慌ててイラクに舞い戻っていることでしょう。しかし、いずれの地においても彼らは、構造的な問題の本質を理解することはないのでしょう。(敬称略)

    (早尾貴紀)

  5. パレスチナの名前

    詳しく書くと複雑になるので、ここでは、大まかな話と身近に聞いた話を書きます。

    名前の順番は、1.自分の名前(ファーストネーム)、2.お父さんの名前、3.名字

    3番目の名字は、その一族を大きくした人のファーストネームや先祖の職業、先祖の出身地などから作られます。

    例)フセイン→アル・フセイニー
    カーシム→アル・カーシム
    ナーブルス→アン・ナブルーシー
    ハリール(ヘブロン)→ハリーリー

    伝統的に、長男の名前に父方の祖父と同じ名前をつけるというのもあります。長男の名前は2種類で永遠に続くことになります。石けん工場のマジュタバさんの子どもアドナーンはまだ5才くらいですが、その子どもの名前はもう、マジュタバに決まっているわけです。また、長男が生まれると、そのお父さん、お母さんは名前で呼ばれずに「〜のお父さん(アブー・〜)」「〜のお母さん(ウンム・〜)」となります。マジュタバさんは、アブー・アドナーンとなるのです。

    マジュタバは珍しいですが、男性で、なんと言っても一番多い名前は、イスラームの預言者の名前ムハンマドです。

    パレスチナの名前は、歴史や想いを反映しています。

    「アグバリーエ」という名字を持つ友人に、その由来を聞いてみました。ウンム・ル・ファヘムというアラブ人の大きな町に非常に多い名字で、起源は一つの家族に遡れるかもしれないが、いまではこの名字を持つ人は沢山いて、必ずしも親戚関係ではありません。そして、「アグバリーエ」という名字が地元ではあまりに多いために、ウンム・ル・ファヘムに帰ると、彼は「サアディ(幸せ)」という別な名字を使っています。これも彼の家族の名字です。

    ところが、その名字もまた1948年に彼のおじいさんが変えたものらしく、その前には「アブー・サッレ」という名字でした。「サッレ」とは編んだバスケットのことで、そこから漏れる水によって「水を分け与える者」という意味があったそうです。それが48年のイスラエル建国、つまりパレスチナにとっての「ナクバ(大災難)」の年に、「幸せ」を意味する「サアディ」に変えられたというのは印象的です。友人は「皮肉なことだ」と言いましたが、いつか幸せが来ることを願ってのことだろうと思います。

    女性の名前でフィラスティーン(パレスチナ)、男性の名前でワタン(祖国)というのも、多くはありませんがときどき聞きます。

    他方で、イスラエル国籍を持つパレスチナ人の中には、最近はユダヤ人の名前を子どもにつけるという例が、少数ながら見られます。これは、社会的多数派であるユダヤ人に対して、さまざまな差別を受けるアラブ系市民が、少しでも「生きやすく」と子どものことを思いそうするのだそうです。例えば、男の子では「ロネン」、女の子では「サリット」などというユダヤ人に普通に見られる名前を付けられているパレスチナ人がいます。もちろんそれだからと言って、制度的な差別を免れるわけではありませんが。(これは、在日コリアンの通名問題にも共通する問題でしょう)

    今後も、文化の話を時々書いていこうと思います。(皆川・早尾)

投稿日:2004年04月12日(月)
この記事のURL:http://paleoli.org/?eid=208