新シーズンのオリーブオイルが入荷しました!

オリーブオイル 石けん サラダ オリーブオイル工場 オリーブの林

背景がわかる良質な商品をお届けします。

パレスチナ・オリーブでは、素材の質や効能はもちろん、
誰が、どんな状況で、どういう方法で作ったものなのかといった製造背景をクリアにしています。
だから安心。だから美味しい。だから、自信を持ってオススメできる商品ばかりです。

生産者パートナーと協力し、ともに生きる
誰もが大切にされる社会を作っていきます。

パレスチナ・オリーブは、パレスチナ北部のガリラヤ地方(1948年からイスラエル領)のオリーブオイルなどの食品、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)ナーブルスのオリーブ石けん、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)イドナ村の刺繍製品を扱っています。

実際に食べて使って納得したものを輸入し、現地を訪問・交流しながら活動しています。

イベント

30号(2007年10月4日発行)
  1. パレスチナ訪問

    2007年8月末〜9月初めに皆川が生産者団体を訪問しました。

    ガリラヤのシンディアナ

    シンディアナが設立されて10年、コフル・カナ村に移転して2年。いろいろな課題を乗り越え、全体がかみあって仕事ができているように感じました。

    オリーブやハーブ類の契約農家は約50世帯に増えました。シンディアナ事務所&作業場で働いているのは、6人のパレスチナ人女性と2人のユダヤ人女性です。

    作業チーフは働いて4年になるサーミヤ・ナアムナさん(39歳)。「シンディアナが発展して嬉しい。商品の種類が増え、倉庫も大きくなった。外国人の訪問者が増えたので英語が勉強したいなあ。」 1年半前に会ったときは働き始めで、おとなしそうな印象だったハナーン・ラーシッドさん(34歳)は、どこかたくましくなっていました。新人はコフル・カナ村に住むドゥーリーンさん(18歳。写真:石けんを包装中)。「大学で環境の勉強をしたいので、働いてお金を貯めたい。」 今までは既婚女性で家庭のために働いている人が多かったので、新しいタイプです。

    オリーブオイル

    オリーブの木は1.5cm程の小さな実をつけていました。11月からオリーブの収穫が始まります。今年は収穫量の少ない裏作で(2年サイクル)、2008年春にはアーラ村のユーニスさんのオリーブオイルが届く予定です。

    シンディアナには、未使用地を借りてオリーブの木を育てたい、という長期目標があり、土地のめどもついているそうで、あとは資金の問題です。

    ザータル

    これまで、ジェニーン栽培女性組合からのザータルを買い入れていましたが、品質・許可・輸送などに問題がおこり、イルブーン村(ガリラヤ)のナフーレさんからの買い入れに変更になります。ナフーレさんは、ザータルの他、ミントやカモミールを育てている農家です。ザータルの畑と作業場を見せてもらいました。ナフーレさんは畑から収穫して乾燥させたザータルを、シンディアナのスタッフの目の前で小さな機械で細かくし、渡します。

    フェアトレード商品の場合、品質に対するこだわりのへ理解が欠かせません。一般の農家はオリーブオイルの酸化濃度は気にしませんし、ザータルにレモンソルト(化学調味料)を使ったり、他の草が混ざっていたりしても気にしません。

    かごプロジェクト

    かご研修コースを行なっているコフル・マンダ村のマアン(イスラエル内とエルサレムのパレスチナ人労働者のための団体)の事務所を訪問しました。このプロジェクトはシンディアナとマアンの共同プロジェクトです。

    オリーブの枝やナツメヤシの枝でかごを編むという伝統技術はいま継承されていないので、みな初めから学ぶことになります。これまで、いくつかの村でコースを実施しましたが、だいたい20人で始めて第1段階が終わると半分の人数になり、第2段階終了後、シンディアナの商品販売のレベルに達するのは数人です。

    しかし、このコースの目的は、女性が外に出ること(エンパワーメント)と市場開拓です。実際、家庭に閉じこもりがちな既婚女性が一定時間、子どもを置いて外出するきっかけや自信となり、コース参加者の中には、その後、働き始めた人もいるそうです。(コースには子ども同伴の参加者もいます) 前回の通信で書いたように、コース終了者が新しいコースの先生になったり、村役場に働きかけてコースを実施して先生になったりしているそうです。

    2008年春には、新商品のオリーブの枝で編んだカゴが入荷予定です! (枝の剪定の時期が冬で柔らかいうちに編むので季節商品です。)

    ハチミツ・プロジェクト

    ハチミツ研修コースもかご研修コースと同様の目的を持っていますが、男性も参加しています。フェアトレードで海外に売る程に量は取れませんが、ハチミツは地元で需要が高いので、地域内で売ることができます。昨年のコース卒業者は、全員、今年も養蜂を続けています。味見しましたが、軽くもなく重たくもなく、適度な感じでおいしいハチミツでした。

    シンディアナでは、地元向けにハーブ・ミックスのオリーブ茶などの販売も始めました。在来種のおいしいアーモンド(ローストなし)も商品化を検討しているそうです。

    シンディアナの関連団体のマアンも、建設労働者の権利擁護、雇用確保から始まり、農業労働、ホテル労働、石切労働など活動の場を広げ、事務所の数も増えています。

    しかし、シンディアナやマアンの活動が充実してきた一方で、それがイスラエルの国家や社会に対抗する/それらを変えていく力となっているかということについては、スタッフは「そうなっていない。いまは時期が悪すぎる」と言っていました。シンディアナの女性たちは、働くだけでなく、女性や労働者、パレスチナ人の権利を求める様々な活動にも参加しています。

    ガザや西岸と比較すれば、ましだと言えるかもしれないイスラエル内のパレスチナ人の経済状況ですが、2006年の統計によれば、イスラエル内のユダヤ人の平均所得とパレスチナ人の平均所得の格差はますます広がり、貧困層の割合も半数以上になったそうです。フラストレーションはたまっています。

    補足:コフル・カナ村

    ナザレから北東に約10km。住民の半分弱がクリスチャン、残りがムスリムです。ここは、婚礼でワインが足りなくなったので、婚礼に招かれていたイエスが水瓶の水を上質なワインに変えた「カナの奇跡」の場所なのです。村にはギリシア正教とフランチェスコ会の2つの教会があり、観光スポットにもなっています。

    ところが、観光客は教会に来るだけで、村には滞在(食事や宿泊)しません。イスラエル政府は、ツアー会社に、アラブ・パレスチナ人の町であるナザレやコフル・カナ村ではなく、ユダヤ人の町となっているティベリアに泊まることを勧めているそうです。

    石けん工場

    前号の通信(6月初め)で書いた状況からいろいろ変化がありました。

    「ハマスとファタハの連立内閣ができた」と書いたばかりなのに、6月半ばには、皆さんご存知のような流血の事態となり、ナーブルスの路上でも、武装した両組織の人々が歩き回り、子どもたちには危険だったそうです。9月初めには、いつものナーブルスの町に戻っていました。また、ヨルダン川西岸地区では、未払いだった公務員の給料が遡って支払われ始めているそうです。

    工場は、久しぶりに注文が多く大忙し。マジュタバさんの他6人の職人さんたちが、文字通り、汗水たらして働いていました。この1ヶ月は、毎日のように操業できたそうです。前号で「電話、FAX、インターネットがつながった」と書きましたが、この地域には未だ電話はつながっておらず、石けん工場までは自分たちで資金を負担して電話線を延ばしました。

    また、それぞれミントやシナモン、ジンジャーなどスパイスや、ナツメヤシ、キウイなど果物を入れたオリーブ石けんを一部で販売し始めました。

    オリーブオイルだけの石けんより、ミント入りのオリーブ石けんを作った方が、仕事は増え、雇用は増えます。ミントは、マジュタバさんのお母さんと近所の人たちで刻んだそうです。しかし、これらの石けんは香りや色を楽しむものです。肌への効果から考えると優れているのは、最初に考え石けんセット(4種)にした、ミルクやハチミツのオリーブ石けんなのだそうです。(日本では薬事法に基づき、石けんごとに申請が必要なので、いろいろな石けんを少量輸入することは困難です) レモン果汁は最初は、石けん工場の職人さんたちで搾っていましたが、量が増えたため生ジュース屋さんにお願いしたそうです。

    ドバイ(UAE)で3年間働いていたマジュタバさんの弟のマヘルさんが帰ってきていたのですが、近くまたドバイに戻るそうです(奥さんは出産のためフィリピンに里帰り)。 ドバイには、いま仕事がありますが、物価が高い。そのため、妻子をパレスチナに残して、自分だけドバイで働く、という人も増えているそうです。

    変わらないのはナーブルスと石けん工場のあるベイト・フリークの間にある検問所。この検問所は、ベイト・フリークと隣のベイト・ダジャーンの住民か、許可を持った人だけが通れますが、5分で通過できることもあれば、3時間かかることもあります。

    補足:生ジュース屋さん

    パレスチナの町には、その場で果物を搾ってくれる生ジュース屋さんがあります。オレンジとグレープフルーツ、バナナとリンゴ、など自由に選んでミックスジュースも頼めます。イチジクジュースも最盛期でした。果物によって多少価格は異なりますが、グラス1杯150円前後です。

    イドナ村女性組合

    5月下旬、イスラエル軍の兵士がイドナ女性組合のセンターに踏み込んだことをお伝えしましたが、現在は修理も済み、通常に戻っています。寄付で新しいコンピューターも入っていました。

    注文が増え、グループの女性たちは50人以上になりました。刺繍をする人が増えましたが、縫製をする人は技術習得が難しいために増えていません。刺繍も技術によって作れるものが異なります。刺繍用の格子のある布ではなく綿布に直接刺繍するエプロンには高い技術が必要です。

    今回、商品をその場でチェックし、問題がある部分をその場で直してもらいました。刺繍はとても綺麗なのですが、縫い目が落ちていたりと縫製ミスが時々あります。「日本では、みんなあなたみたいに細かく見るの?」と驚かれましたが「(問題があれば)使っているうちに、ほつれてきてしまう」ということを伝えました。

    パレスチナの刺繍団体の中では、技術・センスともピカイチのイドナ女性組合ですが、課題もあります。訪問時には、商品が出来上がった後の仕上げの洗濯(水に浸ける)に難があったものがあり、原因と対策を話し合っていました。

    イドナ女性組合がしっかりしている分、援助団体からモノの寄付が多いのも問題のようでした。メンバーが必要なものを必要なときに考えて買うのではなく、モノが届いてしまう。いま、自立のためには、新しいコンピューターが必要なのか。それとも、例えば、いいアイロンが必要なのか…。検討する間もなくコンピューターが届いてしまいます。

    また、ヨルダン川西岸各地で刺繍団体が増えていることも気になりました。売れるとなると、みんながこぞって同じことを始める。これでは、イドナのように技術があるところの他は、いずれ難しくなると感じました。

    一時期多かった、イスラエル軍によるイドナ村の封鎖はいまはほとんどありません。村を眺めているだけでは何の問題もなさそうです。ところが、ちょっと話を聞くと「今日は近所のお店にイスラエル軍が踏み込んだ」。センターの近くにパレスチナ国旗が多く飾られたイベント会場があったので、何かの式典かと思えば「イスラエルの刑務所に4年入っていた村人が今日、帰ってくるんだ」といった具合です。

  2. イスラエルの兵役

    イスラエルでは、男性3年、女性1年9ヶ月の兵役が義務づけられています。

    シンディアナのユダヤ人スタッフ、ハダスさんの娘ケセムさんが今月17歳になります。まもなく、兵役に関する政府からの文書が届くそうです。ケセムさんから話を聞きました。


    「兵役は拒否します。兵役について友達と話し合っていますが、友達は私が行かないということは理解してくれるけれど、自分たちは行くのが当たり前だと考えています。書類が来てから、兵役拒否を支援しているグループに相談に行きます。いまのところ、公的ボランティア活動(ナショナル・シビリアン・サービス)に参加しようと考えています。いい経験になると思うから。」

    「友達とは、何か事件があったら政治の話をするけれど、普段はあまりしません。政治のことが生活の中心ではないから。政治的に意見が違っても友達は友達です。そもそも、政治的に同じ考えの人がいないのです。左派の友達とも意見が異なります。私は両親と同じように、普通の左派の人よりもっと左です。(註:シオニスト左派ではなく、ユダヤ人を特権的に優位に置くイスラエルの国家のあり方に反対する反シオニスト)」


    ハダスさんはケセムさんに自分で考えて欲しいから兵役についてまだ話し合っていないと言っていました。ハダスさんは公的ボランティア活動にも疑問を持っているそうです。

    2001年8月、イスラエルで兵役を控えた62人の高校生が連名で、抑圧・加害をする側には回らないという意思表示をし、当時のシャロン首相に書簡を出して以降、数年間は、兵役拒否の運動が盛り上がりました。ガザ・ヨルダン川西岸地区へのイスラエル軍の大規模な軍事行動が行なわれていた時期です。兵役拒否者は投獄されました。

    しかし、政治的に兵役を拒否する人には、露骨な軍事行動を拒否する人から、イスラエルの軍隊そのものを拒否する人、イスラエル国家のあり方に異議を唱える人まで幅がありました。現在、兵役拒否は政治的な運動としては下火です。

    一方、兵役に行く人は減っています。イスラエルは良心的兵役拒否を認めていませんが、ユダヤ宗教学校に行く人、身体的・精神的に困難がある人には兵役免除があります。(医者に証明書をもらう。→その後インドや日本に放浪!というパターンもあります) このため、とくにテルアビブなどの大都市に住む若者たちの「兵役逃れ」が増え、とくに女性の40%が兵役に就いていません。

    8月、イスラエル内閣府の下にナショナル・シビリアン・サービス管理局ができました。これまでにも兵役を免除された人が病院、高齢者施設、学校、環境保護などの公的ボランティアに参加することがありましたが、今回それを制度化するということのようです。内閣府によれば、兵役に行かない人々も(国民統合のため)国家に貢献するする機会を整える。ただし、正式に兵役の代わりになるものではなく、兵役義務が優先されます。巧妙なやり方です、、、。

  3. 分離壁(隔離壁)

    イスラエルが「安全のため」という名目で2002年から建設している分離壁は、実際には、パレスチナを分断し、土地と水源を奪い、パレスチナ人のヒトとモノの移動をコントロールしています。  2004年に来日し、『ぜいとぅーん』19号で紹介した、トゥルカレムのファエズさんを訪ねました。 (パレスチナの平和を考える会編『パレスチナ農民が語る「隔離壁」が奪ったもの ファエズ・タネブさん講演録』

    ファエズさん(写真)は、トゥルカレムで農業を営んでいますが、隔離壁の建設によって農地の7割を失いました。畑が破壊され、分離壁とイスラエル軍のパトロール用道路になってしまったのです。

    いま、残りの農地で、クーサ(ズッキーニの仲間)、トマト、ナス、きゅうり、さやいんげんなどを育てています。日差しの強い中、朝早くから夜遅くまで畑にいます(暑さのため、昼に休憩を挟みますが)。私も、数時間クーサの収穫に加わりましたが、それだけでぐったりです。

    オスロ合意前、トゥルカレムには、イスラエル人(パレスチナ系もユダヤ系も)が買い物に来ていました。(やはりグリーンライン沿いで商店が栄えていたナズラット・イーサ村は、2003年に120もの商店と建物が破壊されました。)いまは、分離壁や検問所に阻まれているため、買い物客は来なくなりました。また、数多くの検問所のため、トゥルカレムの野菜をヨルダン川西岸各地に販売することも難しくなりました。検問所で待たされ、野菜が腐ってしまうこともよくあります。もともと、トゥルカレム、カルキリヤ近辺は水が豊富なため、農業地帯なのですが、いまはトゥルカレムの農民は野菜をトゥルカレム市場にしか売れません。市場(しじょう)が小さいので、野菜の値段が下がり続けています。

    一箱が18〜20キロの箱で市場に売りますが「5シェケル(約140円)なんてときにはやってられない」と言います。ひどいときはナスが一箱2シェケル(約55円)。いまは、クーサがいい値段で一箱30シェケル(約840円)。カリフラワーが9シェケル(約250円)と言われ売るのを止めていました。「これでは育てる水代より安い」(八百屋さんでの小売値はこの1.4倍くらいになります) パレスチナの物価は日本とたいして変わらないので、生活の厳しさが想像できます。たとえば、保育園は公立のものがなく、ひと月150シェケル(約4200円)と聞きました。

    ファエズさんは、農地で忙しく働く一方で、ストップ・ザ・ウォール・キャンペーンのメンバーとして活動しています。オランダのハーグで行なわれた「壁」建設を問う国際司法裁判所の公聴会にも参加しています。(2004年に国際司法裁判所は建設の中止と撤去、建設により被害を受けたパレスチナ人への補償を求める勧告を出しましたが、法的拘束力はなく、イスラエルは建設を続けています)。妻のモナさん(表紙写真)もトゥルカレムの女性クラブのリーダーとして活動しています。

    北部の水源地帯から建設が始まった分離壁は伸び続け、現在はエルサレム周辺でくねくねに入り組んだ壁が建設され、そちらが焦点になっているため、トゥルカレムへの活動家の訪問は減っているそうです。

    11月末〜12月初めには、パレスチナの平和を考える会の招聘でストップ・ザ・ウォール・キャンペーンの他のメンバーが来日、各地で講演予定です(詳しくは、次号の通信でお知らせします)。

    検問所

    パレスチナを訪問するたびにイスラエル軍の検問所のシステムが変わり、それに伴いパレスチナの交通網が変わります。ヨルダン川西岸地区では、現在、大小数百の検問所の他、エルサレム〜ベツレヘムの間、エルサレム〜ラマッラーの間、ラマッラー〜ナーブルス、トゥルカレム方面の分岐点などに巨大検問所ができ、分離壁が伸び、イスラエルにとってコントロールしやすく、よりシステマティックになった印象を受けました。

    いままで、直通ならエルサレムから車で30分程のラマッラーに行くのに、いったんカランディア検問所でバスや乗り合いタクシーを降り、検問所を抜けてから別の乗り合いタクシーを拾っていました。今回は、バスから乗客が(パレスチナ人だけ!) いったん降りて検問所を通っている間、同じバスが検問所を抜けた先で乗客を待っていました。外国人である私は、イスラエル兵にパスポートを見せただけでバスの中で待っていました。巨大検問所の中を見ることができなかったのです。

    多くの検問所はやはり歩いて通ります。トゥルカレムからナーブルスに行く途中、ベイト・イーバの検問所でイスラエル兵にパスポートを見せたところ、50cmの至近距離で機関銃の銃口を胸に突きつけられ「フィリピン人だろう」と言われました。一瞬何が言いたいのか分かりませんでしたが、フィリピンの人に失礼な/差別的な発言です。イスラエルでは、中国、フィリピン、タイなどアジアからの外国人労働者が増えていますが、彼らに対するイスラエル人の差別意識が見えます。

    検問所などにより、職場と家の行き来が難しい人もいます。友人がこんなことを教えてくれました。「私の友人の夫はジェリコで働いて、週末だけラマッラー近郊の自宅に帰ってくる。こういうのを最近『パートタイム婚』って言うの。」 日本で言う「単身赴任」でしょうが、家族を大事にするパレスチナで、土地、親族、家族の分断がますます進んでいます。

  4. パレスチナ訪問「タイベ村」
  5. 編集後記

    ファタハ対ハマス??

    ヨルダン川西岸地区の知人たちは、イスラエルの制限によって、電気やガス、生活物資が不足しているガザの人々の生活を心配していました。現在、西岸地区からがザへは食糧しか送ることができません。イスラエル軍の侵攻も絶え間なく続いています。

    ガザに親戚が多いAさんは、(祖父母が1948年に難民となった)、以前は、よくガザに行っていました(現在は許可が出ないので行けません)。「ファタハとハマスの対立ではない。イスラエルとアメリカが武器を送り、パレスチナ政府が弱った。ファタハとハマス政権の対立に、(武装勢力ではない)みんなは戸惑った。ガザの人はとてもいい人たちで、タフなんだ。だから、イスラエルとアメリカはガザをつぶしたかったんだ」

    Bさんは言いました。「ガザは西岸よりましだよ。セキュリティーがあるし法がある。政府がきちっと全体をコントロールしている。西岸には法がない! ファタハの新政権は、あれこれ変えた。いま、西岸のハマス支持者は何にも参加できない。政治活動はやめて普通の人になっている」(Bさんはどちらの支持者でもありません)

    子どもたちへの影響

    知人宅でテレビを見ていたとき、あるCM(公共広告?)に ショックを受けました。アニメーションで描かれています。


    リュックを背負った学校帰りの小学生の男の子が歩いている。→たまたま、イスラエル兵に殺害されたパレスチナ人のお葬式の行進が通った(お葬式はしばしば抗議デモの意味合いも持つ)→男の子はデモの参加者に手を振って挨拶をする→男の子は行進に背を向け歩き始める。→イスラエル軍の流れ弾が当たって男の子が死ぬ。


    「なに、これ? 子どもに気をつけなさいって伝えるCM??」と聞くと、何でもなさそうに「そう」との返事。他の友人にもこのCMの話をしたら「事実あった話でしょ」。

    家の中で子どもが闘いごっこやお葬式ごっこをしているのも見かけました。4歳の子を持つ友人に「将来、子どもが武装組織に入らないか心配にならない?」と尋ねると「自分は子どもたちを止めるから大丈夫」と言っていました。いったん武装組織に登録し、武器・訓練・お金を与えられてからは組織を抜けることができないそうです。だから、登録前に親が止めればいい、と。

    新学年とラマダーン

    9月1日から学校の新学年が始まり、13日からラマダーン(断食月)が始まる直前という時期でしたので、町はにぎやかでした。あちこちの家庭で、子どもが文房具や服を親に頼んでいました。さらに、ラマダーン明けには新年で新しい洋服などプレゼントをあげる習慣なので、お金がかかる時期でもあります。「ラマダーン中はみんなが日が沈む前に早く家に帰りたいことを知っていて、イスラエル兵がわざと検問所で時間をかけるんだ」などと言うことも聞きます。

    パレスチナの全体的な状況に良い変化は何も見られず、購買力も落ちていますが、グローバリゼーションの影響で、お店にはモノがあふれ車や携帯電話も増えています。子どもたちは日本のTVアニメに夢中です。

    パレスチナに行くと、一見して普通の日常生活と占領のギャップ(あるいは日常化した占領)にいつも戸惑います。

  6. オススメ新刊本

    ルティ・ジョスコヴィッツ『(増補新版)私のなかの「ユダヤ人」』(現代企画室、2007年、1680円)

    この本には、人がどこかの国の「国民」であるとはどういうことかについて書かれてあります。私たちは自分のことを「日本人」だと信じてめったに疑いませんが、そうことは単純ではないのだ、ということをこの本は気づかせてくれます。

    ルティさんは、1948年に建国されたばかりのイスラエル国家へ移住をしたユダヤ教徒の両親のもと、翌49年に生まれました。ポーランド出身のご両親は、ナチスの迫害を受け、旧ソ連領の収容所生活を経て、戦後にフランスに移住し、そこからさraに建国直後のイスラエルに再移住をしたのでした。

    生活不安のためにわずか数年で、幼少のルティさんも含めて一家はイスラエルを離れ、フランスに戻ってしまいますが、両親はイスラエル国家を強固に信奉するシオニズム思想を捨てたわけではありませんでした。そのためルティさんら子どもたちは、当然イスラエルを熱烈に支持するシオニズム教育を受け、姉たちが成人後イスラエルに再渡航するのに続いて、ルティさんもイスラエルに渡航します。

    しかし、そこで出会い、その後長く生活をともにすることとなったジャーナリストの広河隆一氏によって、信奉していたイスラエルの正統性を根底的に覆されます。ルティさんは、パレスチナの村の廃墟の上に自分が立っていることに気づき、反シオニストに転じ、そうして広河氏とともに日本に渡ります。1970年、ルティさん21歳のときのことです。

    それから日本で11年、子どもも二人生まれ、日本語や生活習慣にも馴染んできたというときに、日本国籍取得いわゆる帰化申請は、法務省によって「同化不十分」という理由で却下。しかも重国籍を認めない法務省は、フランス国籍の離脱証明書を持ってこいと指示していたため、この時点でルティさんは「無国籍」になります。この体験は、ルティさんに、大きく二つのことに目を向けさせました。一つには、さまざまな法的制約から日本で無国籍状態に置かれている数十万人もの人びとの存在へ。もう一つは、自分自身のアイデンティティのルーツへ。

    もちろんこの本の多くのページは、両親や祖先らの通ってきた過酷な迫害の歴史と、そしてイスラエルを批判する立場へ転じた自らの思索の軌跡に充てられています。しかしそれだけではなく、「国家とは?」「国民とは?」という普遍的な問いと、そして「イスラエルと同様に、血の繋がりによって単一民族を信じて疑わず、マイノリティ差別を続けている日本とは、日本人とは何か?」という問いをも発しているからこそ、この本は25年前の初版刊行以来、このたび三度目の刊行の運びとなりました。増補版での再刊を喜ぶとともに、一人でも多くの人に読んでもらいたいと思います。

    * 一般の書店やパレスチナ・オリーブでお買い求め下さい。(早尾)

投稿日:2007年10月04日(木)
この記事のURL:http://paleoli.org/?eid=222