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オリーブオイル石けん サラダ オリーブオイル工場オリーブの林

背景がわかる良質な商品をお届けします。

パレスチナ・オリーブでは、素材の質や効能はもちろん、
誰が、どんな状況で、どういう方法で作ったものなのかといった製造背景をクリアにしています。
だから安心。だから美味しい。だから、自信を持ってオススメできる商品ばかりです。

生産者パートナーと協力し、ともに生きる
誰もが大切にされる社会を作っていきます。

パレスチナ・オリーブは、パレスチナ北部のガリラヤ地方(1948年からイスラエル領)のオリーブオイルなどの食品、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)ナーブルスのオリーブ石けん、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)イドナ村の刺繍製品を扱っています。

実際に食べて使って納得したものを輸入し、現地を訪問・交流しながら活動しています。

イベント

34号(2008年10月7日発行)
  1. 商品を置くスペースが十分にないことが、長年の課題でしたが、おかげ様で、引越しすることができました。オリーブオイルが季節商品のため、1年に1回、まとめて輸入するので置き場所が大変でした。

    私が「ガリラヤのシンディアナ」に出会って10年。その間、シンディアナは2回移転しました。石けん工場は、2000年に現在の工場を造った後、その場所が軍事封鎖地域になり、他の場所に間借りして、2006年にようやく新しい工場に移りました。「イドナ女性組合」に出会って5年。その間に3回移転しました。どれも、規模が大きくなったことに伴う移転です。しかし、全体の状況が厳しいことには変わりありません。

    パレスチナは、ラマダーン(断食月)が終わったところです。これから雨期に入り、10月末からオリーブの収穫も始まります。

    ガリラヤのシンディアナニュース

    ガリラヤのシンディアナの招きで、8月末にジェリコ(ヨルダン川西岸地区)の生産者団体がコフル・カナ村を訪問しました。

    西岸地区からガリラヤ地方に来るには、イスラエルの許可が必要です。11人が申請しましたが、6週間かかって、ようやく、7人のみに1日だけの許可が下りました。女性が6人男性が1人。他の男性はすべて不許可でした(一般的に、イスラエル入国、検問所通過などは男性より女性、若者より年配者に許可が下りやすい傾向があります)。

    しかし! 許可証を持っていてもすんなり検問所は通れません。ジェリコを北上してジェニーンの東側の検問所に行きましたが、2ヶ所の検問所を通れず、結局、どうにかコフル・カーシム近くの検問所を通って、6時間もかかってガリラヤにたどり着いたそうです。(ジェリコからコフル・カナまで直線距離は、約110km)

    ジェリコの生産者団体はシンディアナやマアンのスタッフと交流し、最後はアッカに足を伸ばして楽しんだそうです。

    人とモノの移動が大変な状況が続いており、ほんの少しの距離なのに、パレスチナ人同士の交流も難しくなっています。

    『6 FLOORS TO HELL』の完成

    イスラエルで働くヨルダン川西岸地区からのパレスチナ人不法滞在労働者を描いた、ドキュメンタリー映画『6 FLOORS TO HELL(地獄まで6フロア)』が完成しました。ガリラヤのシンディアナとの協力団体「ビデオ48」が作成したものです。まだ市販はされていないのですが、DVDを送ってもらって観ました。今後、何らかの形で紹介できないか、と考えています。

    ヨルダン川西岸地区の村から、数々の検問所や分離壁を迂回してイスラエルに入るという危険を冒し、劣悪な環境(作りかけで放置されたショッピングモールの地下)に暮らしながら、必死で日雇い労働を探して働くパレスチナ労働者の生々しい姿が描かれています。そのうちの一人のジャラールは結婚資金をためるために働いています。一般に、パレスチナで結婚するためには、まず、2人の住居を用意しなければならないのです。ジャラールも実家の家を自分たちで建て増しします。

    ジャラールの実家はナーブルス近郊の村。美しい緑の風景が映し出されます。でも、そこには仕事がありません。贅沢を求めているのではなく、そこで普通に働いて家庭を持つ、人並みの暮らしがしたいのだ、とジャラールは言います。しかし、長い占領の中で、パレスチナは安いイスラエル製品であふれ、パレスチナの産業は破壊されました(イスラエル政府が輸出補助金をつけるため、安く売れるのです)。そして、1990年代以降、イスラエルはパレスチナ人労働者を追い出し、中国やタイ、フィリピンからの外国人労働者を雇いだしました(外国人労働者も劣悪な環境で働いています)。

    モールの地下の真っ暗な中で、軽快な携帯電話の着メロが印象的です。パレスチナの家族と話したり、イスラエルの雇用者と話したり、携帯電話は必需品です。彼らは、家族のために働いています。検問所でイスラエル兵に「ポケットの中を見せろ」と言われ、お腹の子どもの超音波写真を見せるはめになった、というお父さんもいました。しかし、彼らは自分の子どもたちも将来、同じように働く可能性を否定できません。

    石けん工場ニュース

    ナーブルスの石けん工場では、工場長さんのほか6人の職人さんたちが働いています(工場長も職人です)。10月初めに電話で話を聞きました。

    今年のラマダーンは暑くて日も長い時期だったから、大変だったよ。ドバイで働いている弟2人はナーブルスに帰ってこなかった。

    ラマダーンの1ヶ月は仕事を完全に休みにした。一般的に、経済活動が弱い時期だし、実際、石けんの注文もなかった。

    工場で、妹が働き始めたんだ。会計など事務をやっている。私の12歳の息子は、毎週末、工場に来るようになった。ウェブサイトを来週、アップする予定だ。(←サイトを作る、と数年前から言っています。アラブの「来週」は本当に来週か不明です、、、) もちろん、(コンピューターが苦手な)私が作ったわけじゃない(笑)。

    今年はオリーブの収穫の表年で収穫は良さそうだけれど、需要が増えているので価格は高くなりそうだ。農家にはいいけれど、石けん工場としては、大変だ。

    ナーブルスの全体の様子は変わっていない。知っているかい? 占領というのは、時間が止まっているんだ。石けん工場近くの検問所もいつもと同じ。通過はできるけれど、待たされる。10分で通れることもあるし、2時間かかることもある。

    ラマダーン

    太陰暦であるイスラーム暦に基づいているので、季節がずれていきます。日の出から日没まで、水も食物も取れませんが、夜は家族・友人たち揃って食事をします。このため、夕方早くに家に帰る、朝はゆっくり起きる、などするので仕事時間は短いことが多いです。親族の訪問なども多い時期です。

    ナーブルスの近況

    石けん工場のあるヨルダン川西岸地区の街ナーブルスは、周囲を山や小高い丘に囲まれ、とくに丘の上などにユダヤ人の入植地が点在しており、そのせいでナーブルス周辺の検問所はチェックが厳しいのです。そしてその地形のために、主要な数ヶ所を封鎖してしまえば、ナーブルスの出入りは完全に禁じられてしまい、街全体が「巨大な監獄」となってしまいます。

    加えて、ナーブルス周辺のユダヤ人入植者は、南部ヘブロンの入植者らと並んで、その凶暴さや悪質さで知られています。そして今年も次々と入植者によるナーブルス近郊の村への嫌がらせが起きています。とくに、このあたりのユダヤ人入植者は、「西岸地区全体をイスラエル領にすべきであり、そのために実力行使で入植し、パレスチナ人を追放したい」という強迫観念をもっている人が多いとされています。(他は、たんに経済的な理由から、政府の補助を得て入植している人が多い。)

    嫌がらせの内容は、パレスチナ人やその家屋や車への投石、井戸などへのゴミの投棄、オリーブやその他の農作物の伐採や放火などなど。ときにはナイフやライフル銃など殺傷能力のある武器を使って脅迫してくることもあり、パレスチナ人にとって貴重な家畜であるヒツジやロバが入植者によって殺されることもあります。

    実際、2004年には、ナーブルスに近い小さなパレスチナ人の村が、集団的な入植者の暴行・嫌がらせを継続的に受け、村人全員が避難するという事態まで生じました。このときは、海外ボランティアやイスラエルの平和活動家らが楯として支援することで、村人はほどなく戻ることができましたが、しかし、このあたりの村は、つねに同じ危険にさらされ続けています。

    ここのところ、とくに被害の報告がなされているのはブリン村です。イツハル入植地およびその近くの「アウトポスト」と呼ばれる、民間人が勝手に作った入植地からのユダヤ人が村を攻撃しています。先に述べたような、過激なユダヤ教原理主義者の入植地です。

    さらなる問題は、パレスチナ人がイスラエルの治安警察やイスラエル軍に取り締まりや護衛を依頼しても、彼らも真剣にパレスチナ人を守ったり、入植者を逮捕したりしないことです。理由は、警官や兵士も入植者らに共感を抱いているケースがあることと、入植者があまりに凶暴であるため手をつけられないことです。本気で阻止するには発砲するしかないぐらいに、入植者は兵士にも平然とつかみかかってきますが、兵士も同じユダヤ人として入植者には暴力を行使したくてもできません(社会的に非難されかねないので)。

    さすがにこうした事態に対しては、イスラエル内部でも、「西岸地区は入植者の無法地帯か」とか「入植者が西岸の統治者なのか」といった非難の声があがっていますが、抜本的な対策は立てられていないままの現状です。

    イドナ女性組合

    イドナ女性組合のセンターで働くスタッフ3人のうちの1人、ヌハさんが結婚して隣村に住み、5月に出産しました。赤ちゃんを連れてセンターに働きにきています。普段、他の女性たちも、家で刺繍をして、出来上がった製品を届けたり、布や刺繍糸、デザインを取りにセンターへ来ますが、子ども連れで来る人も多いです。

    イドナ女性組合が生産している商品内容、価格が大幅改定になりました。東エルサレムで作っている無漂白の綿布や、刺繍糸などの材料が大幅に値上がりし、刺繍製品はいままでの1.5倍近い価格になりました。また、材料が手に入りにくくなったり、注文が少なかったりするものは生産中止になりました。

    パレスチナ・オリーブの在庫商品は、旧価格で販売しますが、新入荷分から値上げいたします。

  2. オスロ合意から15年

    2008年9月は、1993年9月の「歴史的」オスロ合意からちょうど15年でした。オスロ合意は、調印当時は、華々しく演出され、和平機運が高まりましたが、次第に、実はパレスチナの側が一切得るものがないまま、ユダヤ人入植地やエルサレムや難民帰還権などを一方的に譲歩させられてしまった内容であることが明らかとなりました。[解説参照]

    実際、93年から2000年までのあいだで、つまり和平プロセスのもとで、ヨルダン川西岸地区のユダヤ人入植地は倍増しているのです。2000年の第二次インティファーダは、進展しない「和平」に対するパレスチナ人の不満の爆発でした。いま、オスロ合意から15年、第二次インティファーダから8年も経過しています。

    この8年間で、パレスチナ自治区へひどい軍事侵攻が繰り返され、検問所や分離壁も建設が進められ、和平プロセスなど消し飛んでしまいました。しかし、その問題の原因はインティファーダなのではなく、オスロ合意にこそあるのです。「オスロの後しばらくは良い時代だった」という発言がしばしば聞かれますが、パレスチナにとって「和平」などあったためしはありません。

    エドワード・サイード『収奪のポリティックス――アラブ・パレスチナ論集成1969-1994』(川田潤他訳、NTT出版、2008年)

    最近、この問題を振り返って考えるのに格好の本が出ました。この本は、アメリカに住んでいたパレスチナ知識人サイード(故人)が、1967年の第三次中東戦争(このときからパレスチナはイスラエルの全面的な占領下におかれている)によってパレスチナ問題に目覚めてから、オスロ合意によって幻滅するまでの四半世紀に書かれた時事評論集です。

    あらためてその時代の流れを読み直すと、なぜオスロ合意などという「不平等条約」を結ばざるをえないことになったのかが見えてくるのと同時に、サイードの目には93年当時から、オスロ合意が民族の権利を放棄する決定的な敗北であり、それがその後のパレスチナの運命を変える転換点となることが明白だった、ということがわかります。

    実際、現在の国際社会のハマス政権ボイコットや、日本政府のパレスチナODAなども、すべてオスロの幻想の上に成り立っている非現実的で地元を無視した政策です。現在のパレスチナ支援の限界について考えるうえでも、オスロを反省することが必要だと思います。

    オスロ合意(パレスチナ暫定自治合意)

    1993年にノルウェーのオスロで進められた秘密交渉を経て9月にワシントンで調印された「パレスチナ暫定自治に関する原則宣言」。内容的には、イスラエル政府とPLOの相互承認(PLOをパレスチナの代表と認める)、将来的なパレスチナ自治に向けて交渉を開始する、と宣言するにとどまり、重要な課題(エルサレムの帰属、パレスチナ難民の帰還権、ユダヤ人入植地、水資源の配分、境界線の確定と最終的地位)が全て先送りされました。

    94年のガザとジェリコの先行自治開始後、95年には、ヨルダン川西岸地区の町と周辺に自治が拡大しましたが、イスラエル軍が自由に侵攻し、検問所を設けてパレスチナ人の人とモノの移動を管理しています。また、未だに、ヨルダン渓谷周辺などは行政も治安も完全にイスラエルの占領下に置かれ、パレスチナ政府も独自には何のプロジェクトもできない状況です。

  3. 新刊紹介

    ヤスミナ・カドラ『テロル』(藤本優子訳、早川書房、2007年)

    ネオミ・シーハブ・ナイ『ハビービー 私のパレスチナ』(小泉純一訳、北星社、2008年)

    パレスチナを舞台にした最近の二冊の小説です。どちらも男女のカップル(夫婦/恋人)を描いています。でも、ひとつは悲観的、もうひとつは楽観的。

    『テロル』は、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)出身でイスラエルに「帰化」しテルアビブに住むパレスチナ人男性医師が主人公。その妻は、イスラエル北部ガリラヤ地方のパレスチナ人の村、コフル・カンナ(シンディアナの事務所倉庫があるところ!)出身という設定です。

    その妻が、夫の知らないうちにパレスチナの武装グループに関わり、テルアビブで自爆してしまう。裕福で地位もある生活で、政治的でも宗教的でもなかった妻が、なぜ突然に。理解できない夫は、自分の足で西岸地区とガリラヤを歩き親族を訪ね、生前の妻の足跡を辿ります。そこで夫が直面したのは、自分が捨て去った故郷の現実でした・・・

    時代背景は、年号の明記はありませんが、ジェニン難民キャンプへの大規模侵攻のことなどが書かれてあるので、2002年頃と思われます。しかし、それにしては、登場人物らがあまりに自在にイスラエルとパレスチナの西岸地区のあいだを、そして西岸地区内部の各都市のあいだを移動しているのが気になりました。第二次インティファーダが勃発したのが2000年であり、西岸地区はすでにイスラエル軍の検問所で寸断されていたにもかかわらず、検問所は一つも登場していません。

    その点を除けば、いろいろ考えさせられることの多い小説だと思います。

    『ハビービー 私のパレスチナ』は、アメリカ系パレスチナ人女性の著者の体験をもとにした小説。著者はアメリカに移住したパレスチナ人の父親とアメリカ人の母親を両親にもち、14歳頃だった1966〜67年にかけて一家でパレスチナ・エルサレム郊外に移住した経験があります。

    この小説の主人公も、同じ家族構成と年齢の少女です。アメリカとアラブ・パレスチナとのあいだの文化ギャップで戸惑う少女の視点と、素朴でいたずらっぽい語り口が印象的。また、詳細なパレスチナの食べ物の描写や、日常的なアラビア語表現や、エルサレム内外の実在する地名・固有名などは、現地を知る人間にとっては、情景をありありと思い浮かべることができるし、現地を知らない人にとっても、五感に訴える具体的記述が楽しめます。

    物語の核心部分は、少女がユダヤ人の少年と恋に落ちるところ。双方の家族が、二人のことを心配し、もっと慎重になるように注意します。しかし二人は、お互いが心を開き合って信頼できれば、アラブ人もユダヤ人も分け隔てなくつき合えるはずだと、曇りのない純粋さでもって、周囲の不安を払拭します。

    やや楽観的にすぎるこの設定は、1993年のオスロ合意後、2000年からの第2次インティファーダの前に書かれた小説だからでしょうか(原著は97年)。アラブ人の少女とユダヤ人の少年のカップルというのも、いかにもオスロ合意直後の雰囲気を反映しています。

    しかし、占領の問題など何一つ解決できないまま和平プロセスは崩壊しました。著者は現時点であれば、どういう物語を編み出すでしょうか。(早尾)

  4. お料理コーナー、編集後記
投稿日:2008年10月07日(火)
この記事のURL:http://paleoli.org/?eid=226