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パレスチナ・オリーブでは、素材の質や効能はもちろん、
誰が、どんな状況で、どういう方法で作ったものなのかといった製造背景をクリアにしています。
だから安心。だから美味しい。だから、自信を持ってオススメできる商品ばかりです。

生産者パートナーと協力し、ともに生きる
誰もが大切にされる社会を作っていきます。

パレスチナ・オリーブは、パレスチナ北部のガリラヤ地方(1948年からイスラエル領)のオリーブオイルなどの食品、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)ナーブルスのオリーブ石けん、ヨルダン川西岸地区(パレスチナ自治区)イドナ村の刺繍製品を扱っています。

実際に食べて使って納得したものを輸入し、現地を訪問・交流しながら活動しています。

イベント

パレスチナ2004夏映画紹介

*2004年7月に早尾がパレスチナ・フォーラムMLに投稿した文章の構成し直しです。

『アタシュ−渇き』

すでに始まっているエルサレム映画祭、昨日一つの映画を観てきました。イスラエル国籍のパレスチナ人らによる映画です。カンヌにも出品され、何かの批評家賞を取ったとかなんとか。ラマッラー国際映画祭にも出されています。

それくらい名前が知られつつある映画で、いずれ何らかの形でみなさんも観られる機会もこの先にあると思いますので、あまりストーリーの細部は書かな いように気をつけます。実は、この映画のプロデューサーが、エルサレムでいっしょに住んでいるフラットメイトの一人の兄なので、ストーリーよりは裏話を。 「プロデューサーなんて言っても、金もないし口を出しているだけだけどね」ということらしいですが。

この映画の主題は、アラブ社会の家父長制です。娘のうちの一人の男性関係が原因で、村にいることができなくなった一家が、人里を離れた山中でひっそ りと暮らす(そこはイスラエル軍が昔使っていてすでに放棄された演習場)。もちろんその父親もまた、外界と隔絶したその場所においてさえ、典型的な絶対的 家長として振る舞い続ける。ところが、、、。という設定。すべての場面が緊迫感に溢れ、息を抜くことができない。最後の最後までものすごい圧迫感を観客に 与えるのですが、それはその家族が耐えている抑圧をよく伝えているのだろうと思います。ドッと疲れました。

チケットは売り切れの満席で、僕も買えなかったのですが、フラットメイトが会場にいたプロデューサーの兄をつかまえて「もう一枚融通してくれ」で オッケー。助かったぁ。彼の実家も、そして親戚にあたる監督も、それから出演しているスタッフも、みんなウンム・ル・ファヘム(ジェニン近くのグリーンラ インに接するイスラエル側の村)出身。家族総出で観に来ていました。

さて、この会場を満席にした作品ですが(その観客の8割はユダヤ系イスラエル人に見えました。1割アラブ、1割外国人)、なんと映画祭側は、出品を 一度断ったというのです。その断り方がいかにも。「監督も制作も出演も、みんなアラブ。イスラエルには関係のない話」と。ええっー、そんなにこの映画祭は 反動的だったかなぁ。世界中の映画が来ているじゃん。「『イスラエル映画』としては認められない」という意味かな。それでもなんとか試写をさせてもらっ て、それで出品を認められたそうです。これが裏話その一。

裏話その二が、キャストはその娘役一人が役者経験が若干あるだけで、他の父・母、息子はみーんな素人(にはぜんぜん見えないんですが)。偏屈親父を 演じる人は本職が建設労働だそうです。他の役柄にしても、ウンム・ル・ファヘムの知人とかあるいは街中から探して抜擢したそうですが、面白いのは、このプ ロデューサーの母親にも一度打診をしたときのこと。そしたら、父親(つまり夫)が、はっきりと「ダメだ」とは言葉では明言しなかったものの、その態度のす べてがダメだということを語っており、出演不許可。それから、もう一人の娘役にということだと思いますが、一人の従妹に頼んだところ、その兄が「許さん」 と。つまり、本人の意思ではなく、父とか兄が決めてしまう。まさに家父長権力を主題にしている映画だというのに! いや、「のに」ではありませんね。それ だからこそ、この映画がリアリティを持っているのでしょう。それにしても、父役だけじゃなく母も息子も、みんなとても素人とは思えない味を出していまし た。

結局、フラットメイトの母親は、裏方で撮影をいろいろとサポートをする一人になったそうです。それから、彼も(冗談半分でしょうけど)、「オレにも端役でいいからくれ」とプロデューサーの兄に言ったら、即座に「寝言言ってんじゃねぇ」と一笑に付されたとか。

そんなことばかり書くと、いかにも素人臭い映画ではないかと思われるかもしれませんが、そんなことはありません。かなり水準の高い映画です。その静 かだけれども衝撃的な最後のシーンが残す、どよーんとした余韻まで含めて、一見の価値ありだと思います。(そして一度出品を拒否した映画祭を納得させた、 ということが質の高さをかえって証明していると思います。)

『One Shot』

またも映画の報告です。昨晩上映された映画は、イスラエル兵の中でも、とくにスナイパー(狙撃手)の体験と、彼らが除隊した後の心境の変化を主題としたドキュメンタリーです。

ある者はこういうことを言います。「楽しみの一つ。人を殺すと興奮していた。」ある者はこう言います。「ただ技術的な問題だと思っていた。ターゲッ トまでの距離が 200メートル。移動速度がこれくらい、風がこれくらい。自分の呼吸を調えて。機械作業として集中するようにしていた。」こう言う者もいます。「ルーチン ワーク。いちいち人を殺しているなんて考えてなんかいられない。」

他方で、もう少し時間も経ち、冷静に振り返っている人はこういうことを言います。「当時はまだ10代で、妻も子どももいなく、家族の大切さとか命の 大切さなんて考えもしなかった。何年もしてからだ、自分が何をしてきたのかに気がつかされたのは。」また別の人は言葉に詰まりながらこう言います。「もち ろん相手が人間だということは分かっている。でも、ここは戦場で相手はテロリストなんだと言い聞かせていた。そうじゃなければ、これは冷酷な殺人だってこ とになるのか?」あるいはこうも。「強力な銃で足を撃った。足が吹き飛んだよ。もちろん彼は一生障害を背負って生きていくことになる。あれからテレビで片 足を引き摺っているパレスチナ人を見ると、全部自分の責任なんじゃないかって気さえしてくる。」

ヘタに作為的なイメージ映像を一部挟み込んでいることが、ちょっと難点。元兵士らの心理的な葛藤だとか後悔だとか、あるいは無感覚や開き直りなどがよく伝わる証言に、作戦中の記録映像を織り交ぜただけで、もう十分に立派な作品になっているのに、と思いました。

それと、もう一つ気になるのは、これはあくまでイスラエル軍の一定の協力の下で作られていること。作戦中の記録映像は任務の一部として撮られたもの だと断りが入っていましたし、元スナイパーに(顔の一部を隠してであれ)あれだけの数をインタヴューするのにだって、軍の許可と協力があってのことでしょ う。この映画の全体的な効果として、軍の作戦行動が倫理的なものだったとまでは言えないにせよ、少なくとも倫理への問いは保持しているし、自己批判ができ る理性を持っている、という印象は与えます。実際、映像に出てくる作戦中の兵士であれ、証言をする元スナイパーであれ、みんな真面目で冷静。でも実際に占 領地の兵士には、もっともっと精神的に「ぶっ壊れている」ようなのがいっぱいいるわけです。そういうところまではまだえぐり出せないよなぁとも思いまし た。

『Mur --壁』

先週の15日に西エルサレム・シネマテークで、翌16日にラマッラーのアルカサバで、シモーヌ・ビットン監督による映画『Mur --壁』を観てきました。(ちなみに、「西」エルサレムのシネマテークからでさえも、東のアブー・ディース方面に目を向ければ、もう分離壁が肉眼ではっき り見えるということに、映画祭に来た人はどれくらい気がついているのでしょうか。)

とにかく全体の構成や細部へのこだわりは、徹底して自らのアイデンティティである「アラブ系ユダヤ人」というところに依拠しているということが、ひじょうに強く押し出されていると感じました。まずは冒頭の入り方が印象的です。

ベツレヘム近郊のベイト・ジャッラに接する入植地の子どもたちとの対話から入ります。
「(監督を見て)アラブ人かと思って逃げちゃった。」
「どうして戻ってきたの?」
「ユダヤ人と分かったから。」
「でもどうしてユダヤ人と分かるの?」
「ヘブライ語をしゃべるから。」
「でもヘブライ語をしゃべらないユダヤ人もいるよ。」
「アクセントでわかる。」
「もし私がヘブライ語を話さなかったら?」
「私のお母さんもアラビア語を話すもの。モロッコ生まれだから。でも私が理解できないから、家では話さない。あなたはユダヤ人じゃないの?」
「もしかすると違うかも。」

そして壁の建設現場で働く人びとや、壁に影響を受けながらも移動をしている人びと、壁に「守られる」入植者、そして壁そのものに焦点を当てる一方 で、そのあいまあいまに挿入される、イスラエル軍のセキュリティ部門将校へのインタビューが象徴的な役割を果たしていました。監督は、十分に時間を取って 将校に説明をさせます。壁がどうして必要になたのか、壁はどのような機能を果たしているのか、建設費用がどうなっているのか、そして壁がもたらす環境破壊 の保全にどう配慮をしているのか。将校は必死に真面目に言葉を重ねて説明をしていきます。監督は、それ自体には何ら細工をすることなく、愚直に言葉を連ね させ、それを各3分くらいずつ4回に分けて映画の各ポイントに配置します。

そのクソマジメなインタビューが、何と、西エルサレムのユダヤ人からも、ラマッラーのパレスチナ人からも、思わず笑いを引き出すのです。おそらく監 督の狙いどおりに。つまり、壁の必要性・機能からその効果に至るまで、説明が破綻していることが、それを必死に正当化しようとする将校の話し方や表情か ら、むしろありありと伝わってくる。もちろん、そのインタビューの前後には、それを反証することになる映像が入っている。

ただし、ユダヤ人とパレスチナ人では笑いのポイントが若干ずれていて、パレスチナ人は最初に将校が必要性を説明したときから「こいつはアホだ」と言 わんばかりに笑い始めていました。将校が、「パレスチナ人がイスラエル側から車や農機具を奪うのを防ぐのに必要だから」と言った、その瞬間から。ユダヤ人 の側では、その次の登場で、将校が微に入り細に穿って、壁が侵入防止に果たす何重もの機能を一つ一つ誇らしげに説明しているときに、笑いがこらえられなく なりました。その非現実的シュミレーションがほとんど妄想に響いたことでしょう。そのせいもあって、その後は彼が画面に登場しただけで、もうプッと吹き出 している人が少なくありませんでした。パレスチナの側では、とくに4回目の登場で将校が、「壁の両側の支配者である我々は、両側を一切差別することなく、 環境保全・修復に全力を挙げている。違いはまったくない。」と強弁するところでは、全員失笑でした。

その他、観るべきところはいろいろとあると思いますが、これだけの話題作ですので、おそらく日本も含めた世界中で上映されることになるでしょうから、細かには言い過ぎないようにします。

むしろ観客の反応としてさらに加えておくべきことは、監督が「アラブ系ユダヤ人として」この作品を作ったということについては、イスラエル側シネマ テークの上映でも、パレスチナ側アルカサバでの上映でも、あまり理解・共感はなかったように感じました(無理もないことですが)。たんに分離壁についての ドキュメンタリーとして期待をされていた場合、客観的に壁をめぐる背景やら実態をバランスよく抉っているわけではないので、質疑応答でもそれに対する不満 が多い。ユダヤ人の側は、「パレスチナ人のテロに自分らがどれだけ苦しめられているか言及がない。不当だ。」とか「この壁によって実際にいくつのテロが防 げたのか、その現実を無視している。」とか。逆にパレスチナの側では「この壁で生活を破壊されている人びとの日常が描かれていない。」とか「壁の建設に対 する抵抗運動が入っていない。」とか。

それに対して監督は、「この映画にあれが描かれていない、これもないと言われればそれまでのことです。実際にすべてを描くことはできません。そのこ とに開き直るつもりではないが、私は一人のユダヤ人として、壁そのものに焦点を当てて、そして人類が壁による分断の時代に突入したのだということを描こう としました。」と自分のスタンスを強調していました。その中で一つ短く遮られ不毛にも見えた、しかし象徴的なやり取りがありました。

「あなたは半分ユダヤ人として、半分パレスチナ人としてこの作品を作ったとおっしゃいましたが、、、」
「いえ違います。アラブ系ユダヤ人です。」
「じゃあ、半分はイスラエル側に身を置いて、半分はパレスチナ側に身を置いて、、、」
「いえ違います。私はパレスチナ人にはなれません。アラブ系ユダヤ人です。アラブ人だとは言いましたが、パレスチナ人ではありません。これはフランス語で再度強調させてください。Je ne suis pas une palestinienne.」

そして最後のシーン、アブー・ディースの壁に片手を当てて、祈りを捧げているように見える女性を映しながら、背景音楽には「もしエルサレムを忘れて しまったらユダヤ人は、、、」という聖書の詩篇の中に出てくる有名な歌が流されます。このことにやはり一人の観客が、不適切だというニュアンスで、なぜと 問いましたが、監督は、「あれは何度となく同じ姿勢で祈りを捧げていた自分の母に重ねている」と。

こうして映画の最初から最後まで、一貫して「アラブ系ユダヤ人」という姿勢を堅持していたこの作品(実際この作品ほどユダヤ人であることを強く意識 して作ったものは他にないと監督自ら言っていました)は、より直接的に壁問題が訴えられることを希望していた人びとからはやや不満に感じられてしまったよ うに、壁問題に関する報道番組ではありませんし、また啓蒙的作品ではなかったと思います。ただしそれは欠陥であるとかいうことではなく、報道映像には報道 の役割があり、この作品はそうではなく 自らのアイデンティティと動機に強く基づいているということだと思います。

投稿日:2009年04月20日(月)
この記事のURL:http://www.paleoli.org/?eid=30