(2023年12月15日発行)
目次
イスラエル軍の攻撃をリアルタイムで見ているのに止めることができず、本当に悔しい毎日です。生産者団体の皆さんもショックを受けていますし、仕事に深刻な影響もあります。それでも、生産・活動を続けています。
このかん、パレスチナ・オリーブを初めて知った方も多く、いつも以上のご注文をいただきました。お届けまでに時間がかかってしまい、申し訳ありませんでした。
オリーブの塩漬けの販売
1,650円(税込1,782円)
原材料名 オリーブ(種入り)
漬け原材料(塩、レモン、唐辛子)
内容量(固形量) 200g
賞味期限 2025年10月1日
昨年、大好評ですぐに売り切れてしまったオリーブの塩漬け、今年も420本限定で入荷しました(港が封鎖になる直前の出港でした)。
ほどよい酸味と塩味で、ほんのりと辛味と苦味があり、オリーブ本来の味がする自然な美味しさです。昨年入荷したオリーブの塩漬けより、塩味が控えめになっています。
伝統的な製法でつくり、化学薬品や防腐剤はいっさい使っていません。農薬も化学肥料も使っていないオリーブ林で育てたスーリ種(パレスチナの地元種)のオリーブで作っています。
*現地では有機認証を取っていますが、コストを考えて日本で有機表示するための認証は取っていません。
パレスチナでは、オリーブの塩漬けは、ザアタルやオリーブオイルと同様、毎日毎食の食事に欠かせません。
ザアタルの売り切れ、オリーブオイルの在庫
ザアタルが売り切れました。
オリーブオイル250ccは在庫は少なくなり、1月で売り切れそうです。500ccは現在は十分な在庫がありますが、3月には品薄になる可能性があります。
新シーズンのオリーブオイルは来年4月頃に入荷予定です。新シーズンのザアタルも一緒に入荷します。
オリーブオイルの中栓の変更と漏れ
蓋の中栓の形が変わりました。蓋を開けると注ぎ口が飛び出すタイプで、「使いやすくなった」という声を多数いただきました。
一方、数人の方から「横にすると漏れる」とご指摘いただきました。長期間横倒しにして確認したところ、全てではありませんが、わずかに漏れるものがあることがわかりました。オリーブオイルは、これまで同様に立てて保管してください。漏れの問題は改善を求めています。
これまでご迷惑をおかけしていた、蓋の空回りに関してはほぼ問題がなくなりました。
オリーブオイルの受賞
サイト等ではお知らせしていましたが、2022年冬収穫の「ガリラヤのシンディアナ」のオリーブオイルが、「OLIVE JAPAN 2023国際オリーブオイルコンテスト」(日本オリーブオイルソムリエ協会主催)で金賞(コラティーナ種)、銀賞(バルネア種)を受賞しました。現在出荷中のオリーブオイルはこのコラティーナ種とバルネア種のオリジナルブレンドです。
オリーブ石けん<Basic>の売り切れ
定番のオリーブ石けんが売り切れています。この厳しい状況の中ですが、パレスチナ・オリーブ向けのオリーブ石けんはすでに作り終え、出荷を待っているところです。
刺しゅう商品、ほぼ品切れ
ほとんどの刺繍製品が売り切れてしまっていますが、次の入荷の見通しが立っていません。イスラエル軍による封鎖などにより、いま出荷できない状況です。
新商品のメガネストラップも人気であっという間に売り切れてしまいました。再注文しています。
10月7日に何かが始まったわけではありません。19世紀末から20世紀初頭、オスマン帝国の解体・イギリスの委任統治を経て、イスラエル建国宣言の1948年前後から、パレスチナの人々の苦難は始まっていました。詳しくは、裏表紙で紹介したオススメ記事を参照ください。
ガザ地区に関しては報道も多く、私はいま直接のかかわりがないので、ここでは生産者団体の話を中心に書きます。
それぞれの生産者団体とは連絡は取れています。危険がないわけではありませんが、みな無事です。
最初は私も不安ばかりで毎日生産者団体スタッフに電話をかけたくなっていましたが、それは迷惑なのでこらえました。その後はいつも通り、私はそれぞれの生産者団体と「仕事」の話をしてきました。みんなが何があっても、仕事・生活をきちんと続けていこうとしていることに気がついたからです。信念を持ってやってきたことを変える必要はない、生産者団体の姿勢に学ばされました。
【パレスチナ自治区。1967年からイスラエルが軍事占領。1993年のオスロ合意以降の交渉で、主要な町はパレスチナ自治政府の管轄となったが、それはヨルダン川西岸地区の18%の面積に過ぎない。パレスチナ人の人口は約330万人。約150ヶ所のユダヤ人入植地に70万人以上のユダヤ系イスラエル人が住んでいる。】
*オリーブ石けんと刺繍製品の生産者団体はヨルダン川西岸地区にあります。
10月7日から12月10日までに267人のパレスチナ人が、イスラエル軍とユダヤ人入植者によって殺されてしまいました。逮捕者は約4,000人と言われています。
村や町の内部の移動はできます。イスラエル軍による検問所や道路の封鎖のため、離れた町に行くのは困難な状況です。
*ユダヤ人入植者は重武装を許可されています。
*ジェニン難民キャンプにはドローンによるミサイル攻撃も起きています。
*南部の町ヘブロン中心部では、外出禁止例(家から出られない)が続いている地区もあります。
パレスチナ地域は10月半ば~12月がオリーブ収穫シーズンです。オリーブ林は多くが村の郊外にありユダヤ人入植地と近いため、毎年収穫が妨害され怪我人が出ているのですが、今年はさらに危険で収穫できなかったオリーブ林もあるようです。
ナーブル石けん工場
北部にあるジェニンとナーブルスの町では、昨年の夏から集中的にイスラエル軍の軍事行動が続き、これまでも多数の死傷者が出ていました。
ナーブルスは昨年10-11月も40日間、町が封鎖された状況でした(通信72号、73号参照)。ナーブルス中心部にイスラエル軍が度々侵攻したほか、ナーブルスに隣接するフワーラの町ではユダヤ人入植者による焼き討ちがたびたび起きていました。ナーブルス周辺のイスラエル軍検問所も頻繁に封鎖されてきました。
10月7日以降は、攻撃や検問所封鎖がよりひどくなった、という状況です。ナーブルスの町に隣接するバラータ難民キャンプへの侵攻もありました。
直後には、検問所の封鎖だけが問題ではなく「町と町を結ぶ道路が危険すぎて移動ができない。イスラエル軍とユダヤ人入植者が銃撃してくる」と聞きました。
ナーブルスの町の中では、最初の二日だけ学校が休みになりましたが、その後は小中学校は通常通りに行われています。大学は他の町や村から大学に通ってくる学生や教員も多いため、(通学途中の危険を避けるために)いったんオンライン授業になったそうです。
ナーブルス郊外にある石けん工場に近い検問所は、日によって、時間によって、閉まっていたり、開いていたり。検問所に行ってみないと開いているかどうか分からない、という状況が続いています。工場で働く全員が毎日来られるわけではありませんが、操業を続けています。
でも、他の町への移動が難しく、原材料の入荷や製品の出荷ができなくなっています。今年から始まったオーガニックコスメの製造部門は、いま休止中です。
このような状況ですが、パレスチナ・オリーブ向けのオリーブ石けんを製造してくれました。石けんを入れる紙箱も、デザインをデータで送って現地の印刷会社でつくり、石けん工場で石けんを紙箱に入れています。
*湿気から守るため、石けんをポリプロピレンで包んでから紙箱に入れる方法に戻しました。
イドナ村女性組合
イドナの女性たちもガザの人々のことをとても心配しています。
村の中、近隣の村には移動ができるのですが、近くのヘブロンの町にも行ける日と行けない日がある。商品の出荷のためには離れた町に行く必要があるのですが、ユダヤ人入植地の近くの道路が封鎖されて移動できないという状況です。
せっかくコロナ禍が明けて出荷・販売できるようになり、事務所も移転したのに、また出荷できず大打撃です。
コロナ禍で移動が制限され出荷ができない間、経費節減のために村はずれに事務所に移しました。私が今年2月に訪問した時には「やっと注文量が元に戻ってきて移転先を探しているけれど、いいところが見つかっていない」と言っていました。その後、5月に新しい事務所に引っ越しました! 送ってくれた動画を見ましたが、広々として明るくて、いい場所でした。(材料や製品を保管するために)湿気がないこと、(製品をよく見るために)十分な明るさがあること、(メンバーが通いやすいように)村の中心部にあること、家賃が高くないことを満たす場所が必要なので、事務所探しも苦労するのです。
【イスラエルの総人口950万人の約21%、200万人がアラブ・パレスチナ人。イスラエル建国後も自分たちの土地に住み続けたパレスチナの人たち。イスラエルではほとんどの地域で、ユダヤ人の町、アラブ・パレスチナ人の村や町、というように住むところが分かれている。法的・制度的にユダヤ人が優位の国家・社会のなかでマイノリティーとして暮らす】
10月7日以降、イスラエル政府批判が禁止されるなど締め付けが厳しくなり、SNSの投稿や「いいね!」までチェックされているとそうです。数百人が逮捕された、と言われています。
一般のユダヤ系イスラエル人による、イスラエル領内・東エルサレムのパレスチナ人に対する暴力、ヘイトクライムも増加しています。パレスチナ人というだけで救急車で運ばれるぐらいまで殴られる、ということが頻発しているのです。
ガリラヤのシンディアナ
【「ガリラヤのシンディアナ」は、1996年、イスラエル領内のアラブ・パレスチナ人農家さんの支援と、アラブ・パレスチナ女性の仕事作り・エンパワーメントを目的として作られました。運営は、アラブ・パレスチナ女性とユダヤ女性がともに行っています。】
みんな大変なショックを受けていますが、スタッフたちは「悲しみと怒りだけにとらわれてはいけない。希望を失ってしまいそうな人たちを励ましている」「これまで以上に(仲間のパレスチナ女性とユダヤ女性の)強い結びつきを感じている」と言っています。
そして改めて、「協働こそが平和への唯一の道」「このオリーブオイル生産こそが(武力ではない)オルタナティヴな解決方法だ」と強調しています。この2ヶ月、シンディアナのスタッフからは、「平等にともに生きることは可能なんだ」と信じ、社会変革を求めて活動してきたことを、今後もずっと続けていくという強い意志を感じました。
まもなくオリーブ収穫期が終わります。収穫してすぐに圧搾工場に運んで搾ってオリーブオイルにしたものを、シンディアナの加工場に運んでタンクに移します。ボトルやラベルを準備したり、ボトル詰めに入る前の作業中です。
ビジターセンターの休止
国内外からの訪問客がいないので、加工場に併設しているビジターセンターは休業中。
コロナ禍の休業が終わり、連日、訪問客でごったがえしていたのに!です。
オリーブ収穫イベント
毎年恒例、アラブ・パレスチナの人ボランティアとユダヤ系イスラエル人ボランティアが一緒に収穫する、オリーブ収穫イベントを今年も11月半ばに行いました!
例年は150人ほどの参加のところ、今年は他団体とコラボしたということもあるのか、500人が参加したそうです。
これまでも、収穫イベントは「ともに過ごし一緒に作業することでつながる。協働を示し、シンディアナのビジョンを知ってもらう機会になる」と言っていました。「いまこそ重要だ」と困難のなかで開催したのです。
ヨルダン川西岸地区の農業団体との協力
今年から、ナーブルスの西にあるコフル・カドゥーム村の農業協働組合が「ガリラヤのシンディアナ」の契約農家に加わっています。この状況下でも、両者とも「協力関係を続けていく」と確認し合いました。私がシンディアナのスタッフと一緒に今年2月に訪問した団体です(通信73号参照)。
村の土地を奪ってつくられたユダヤ人入植地に近く、普段から入植者による嫌がらせ(暴力)の多い場所で、今年の収穫はいっそう大変だったと思います。ヨルダン川西岸地区からガリラヤ地方に運ぶのも簡単ではありませんが、無事に届くことを願っています。
イスラエルの出稼ぎ労働者の失業
ヨルダン川西岸地区からイスラエルに出稼ぎに通っていたパレスチナ人は約15万人、ヨルダン川西岸地区のユダヤ人入植地の工業地帯で働いていたパレスチナ人は約5万人。ガザ地区からイスラエルに出稼ぎに出ていたパレスチナ人は約1万5千人。
その全員が10月7日以降、失業しました(イスラエルの労働力不足のため、いま数千人だけが復帰)。イスラエル政府はさらなる外国人労働者で労働力を補うと発表しています。
*ガザ地区からの労働者は6千人が10月7日に拘束され11月初めにガザに「送還」されました。
パレスチナはもともと豊かな土地で農業や牧畜、製造業、商業がさかんな地域でした。しかし占領によって、土地や水の利用が制限され、モノと人の移動がコントロールされ、もともとの産業は衰退しました。
人々はイスラエルへの出稼ぎに現金収入を依存するようになりました。しかし、イスラエルに出稼ぎに行くためにはイスラエル政府からの「労働許可証」が必要で、どれくらいの数の許可証を出すのか、誰に出すのか、それはイスラエル政府がパレスチナ人をコントロールする一つの手段になっています。
一方で、90年代以降、農業・建設業・介護などの分野では、外国人労働者が多く働くようになりました。今回、タイの人たちが多く人質になったのは、ガザ周辺のキブツのユダヤ農場で働いていたからでしょう。
パレスチナでは、イスラエルの通貨シェケルが使われているため(オスロ合意後も独自通貨も中央銀行も認められませんでした)、物価がが高くイスラエルの商社を通じて世界の安価な商品がパレスチナ市場に入ってくるのも、パレスチナの産業が衰退した一因でしょう。衣料品はほぼ東南アジアの製品です。
例えば、ナーブルスは何百年も前からオリーブ石けん製造で有名な町でした。しかしこの20年で、ナーブルスに20以上あったオリーブ石けん工場は3つに減ってしまいました。多くの人々はナーブルスのオリーブ石けんを誇りに思いながら、安価な海外の石けんを使っています。
イスラエル領内と東エルサレムのパレスチナ人労働者の解雇
10月7日以降、イスラエル企業によるパレスチナ人を嫌悪しての解雇が急増しました。イスラエル人からの暴力・ヘイトクライムを恐れて仕事に行けない、道路封鎖など物理的な障壁で働きに行けない、それによる解雇も多数起きました。
解雇は無効ではないのか、失業保険は出るのか。独立労組のマアンは、東エルサレムで緊急の労働者支援センターを開設して、懸命に対応しています。食糧や支援を配給する市民物流センターにも参加して、解雇されたり働けなくなったりした東エルサレムの労働者の家族に支援や食糧券も提供しています。
マアンは「外国人労働者をこれ以上増やすのではなく、ヨルダン川西岸地区からのパレスチナ人の出稼ぎ労働者の仕事復帰させること」もイスラエル政府に求めています。
マアン:イスラエルのユダヤ企業(工場、建設現場、農場など)やヨルダン川西岸地区のユダヤ人入植地で働くパレスチナ労働者を支援している労働組合。オリーブオイル生産者団体のシンディアナとも連携して活動している。
観光業への打撃
パレスチナは観光資源の豊かな地域です。クリスマス前後、本来なら観光シーズンなのに国外からの観光客がほぼゼロとなってしまいました。ヨルダン川西岸地区のエルサレム、ベツレヘム、イスラエル領内のナザレ(イスラエル領内で最大のアラブ・パレスチナの町)などのホテル、レストラン、お土産物屋さんは大打撃を受けています。
何かあれば観光客がゼロになってしまうというのは、これまでも何度も繰り返されてきました。
「オスロ合意」に戻れ??
1993年9月のオスロ合意(パレスチナ暫定自治合意)から30年が経ちました。
いまのパレスチナ、イスラエルの状況に対して「オスロ合意体制が崩れてしまったことが問題」「オスロ合意に戻れ」というように言われることがありますが、それは違うと思っています。
オスロ合意は、占領する側であるイスラエルと、占領されている側のパレスチナ、対等ではない両者の話で「話し合い」で今後のことを決めていくことになっていた/「占領」の終了ではなく「管理」の問題にされてしまった/難民の帰還権や入植地の問題など、大事なことが全部先送りされてしまった、などのそもそもの問題点があります。
それから30年、入植地は増え続け、ヨルダン川西岸地区は入植地や入植者用道路で分断され、イスラエル軍は常駐し、パレスチナの「国家」としての実態は乏しいままです。
平等な社会を
独立労組マアンの最近の記事の最後にこう書いてありました。
「私たちは今日もすべての人の尊厳と平等のために闘い続けている。」「2つの国家、あるいは連邦、あるいはすべての人のための1つの民主主義国家を樹立することによって、それは達成されるかもしれない。しかし原則は明確であるべきだ。私たちは人間であり、イスラエル人であれパレスチナ人であれ、誰もが同じ権利を持つべきである。」
現状は平等ではない。平等ではない在り方は変えなければならない。オリーブオイル生産者団体のシンディアナや独立労組のマアンは、そういう目標を持って、地道な活動を30年続けている団体です。
イスラエルの兵役
「イスラエルがなんでこんな残虐なことができるのか信じられない」そういう声も聞くようになりました。イスラエル兵は化け物のように思えるかもしれません。
徴兵制で、18歳から、男性は3年、女性は2年兵役につきます。(任務内容にもよりますが)40歳まで予備役としての訓練と軍務があります。街中にいればどの国にもいそうな「普通の」若者が、人を殺す任務に就くのです。ガザの惨劇を目にした、実行した若者は日常生活に戻れるのでしょうか。
(シンディアナやマアンのユダヤ人スタッフは予備役を拒否し、子どもたちも兵役を拒否をしています。良心的兵役拒否は認められていないので収監され尋問を受けます。)
国際援助
緊急援助は必要でしょう。それでも「イスラエルが壊して国際社会の援助で直す」ということが何度繰り返されていることか。援助が占領を支えてしまってはないか、そういう疑問は持ちつつ、考えていかないといけないと思っています。
- 小田切拓「オスロ合意から30年『土地なき民』になったパレスチナ人」(『週刊金曜日』9月8日号)
- 小田切拓x早尾貴紀「『避難』は民族浄化の一段階」(『週刊金曜日』11月24日号)
- 小田切拓x早尾貴紀「パレスチナで起こっている本当のこと」(『週刊読書人』12月1日号)
- 田浪亜央江「イスラエルによるジェノサイドの背景」(ピープルズプラン研究所)
70回以上のパレスチナ滞在、20年以上の取材経験を持ち、ガザ地区の人々にも深くかかわってきたジャーナリストの小田切さん。イスラエルは何を意図してやってきたのか。これまでの歴史・構造からいまの状況を読み解いています。最初の記事はヨルダン川西岸地区の農業の危機的な状況がよくわかります。
研究者としても市民運動家としても長年パレスチナにかかわってきた田浪さんは「私自身はいまの事態を『パレスチナを占領するイスラエルが、パレスチナにおける最終的な民族浄化(パレスチナ人口の消滅)を目指し、時間をかけて着々とパレスチナ社会を追いつめて来た政策の帰着』と表現するしかないと思っています。」と言い、具体的に構造と状況を説明しています。
編集後記
ガザ地区は「巨大な監獄」と言われ、とくに2007年以降、厳しい封鎖により生活が困難になっていました(いつまで続くかわからず、生命さえ奪われる現状に対しては「監獄より酷い」「生き地獄」と表現され始めました)。これまでも絶望的な状況が続くなかで自殺者も増えていたそうです。それでも日々の営みがありました。近年はIT産業の発展も報道されていました。
私は1995年〜1999年に5回、ガザ地区を訪れています。1995年の訪問は「ガザ・ジェリコの先行自治」の時期で、ガザに政府が来て官公庁もでき、街のあちこちにパレスチナの旗がかかげられ、先行きに不安もありつつも新しい国家への期待が高まっていると感じました。その後、ガザ空港もできて(私は1999年にパレスチナ航空を利用しました!)、ガザ地区からヨーロッパに生花やイチゴを輸出する、という計画も立てられていました。
第2次インティファーダ中の2002年頃から、普通の外国人がガザ地区へ立ち入ることができなくなりました。ここしばらくは国連スタッフや、ガザ地区で活動するNGOの登録されたスタッフ、大手メディアなどだけしか入れません。私ももう20年以上ガザには行っていません。だから私が直接見たガザ地区は、明るい人たちと、美しい海です。
この状況に「何もしないではいられない」と各地でも様々な取り組みが行われています。お取扱店の皆さんも店内にパレスチナコーナーを作ったり、映画上映を企画していたり。私自身も、無力感でうちのめされそうになる中、皆さんに励まされます。
新聞やテレビなどの取材もあれこれ受けました。『パレスチナのちいさないとなみ』もより多くの方に手に取っていただきました。「パレスチナの一人ひとりの暮らし、いとなみを伝えたい。いいモノを広めたい。“ともに生きる”社会を作っていきたい。」 そんな気持ちで長年かかわってきました。何か、皆さんが考える一助、パレスチナを身近に感じる一助になれば幸いです。来年こそは、必ず、平和に向けた年にしていきましょう。